悪女たちの錯覚と、過保護の暴走
侯爵邸へと向かう馬車の中は、耳が痛くなるほどに静まり返っていた。
車輪が石畳を叩く一定のリズムだけが、重苦しく響いている。
その沈黙を、浅薄で傲慢な声音で破ったのは、対面に座るエリシアだった。
「……アリア、勘違いしないでちょうだいね」
わざとらしく深いため息をつき、退屈そうに窓の外を見ながら、エリシアは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「レオンハルト様が最終的に選ぶのは、どう考えてもこのわたしよ。社交界での輝かしい評判も、お父様たちからの愛され方も、男の人を惹きつける愛嬌も……全部、わたしの方が上だもの。あの素晴らしいヴァルツァー家に相応しいのは、わたしだけよ」
私は、特に反論する気も起きず、静かに頷いた。
「そうね」
短く、淡々と答えると、エリシアは一瞬拍子抜けしたような顔をして私を睨んだ。
「……分かっているわ。最初から、すべてはそうなると思っていたもの」
私は視線を落とし、膝の上で細い指をそっと組んだ。
――そう、最初から決まっていたこと。ヴァルツァー家の正妻になるのはエリシアだ。だからこそ、私はあの薔薇の庭園で出会った、名前も知らない切ないほどに優しい『あの紳士』への不貞な恋心を、この胸の奥深くに葬り去らなければならない。顔合わせのあった日、私はあの独房のベッドで、枕を濡らし絶望しながら眠りについた。もうあんな惨めで辛い思いはしたくない。あの人のために、私はこの縁談を全力で壊し、身を引くのだ。
私の諦めの態度に、エリシアは満足そうに口角を上げた。だが、すぐに声を潜め、不気味な調子で身を乗り出してきた。
「だから――ねえ、アリア。侯爵家での滞在中に、もしあんたが何か医学や薬草の成果を出したら、それはいつも通り『わたしの功績』ってことにしなさい。あんたは日陰者らしく目立たないようにして、うまくわたしを立てていればいいのよ」
いつもなら、妹が金で買収したメイドたちが勝手に私の部屋から論文を奪っていく。そこに私の意思はなかった。しかし、これからは違う。医療の知識を、人の命に関わる分野を私利私欲の嘘で汚されることだけは、どうしても看過できなかった。私は、ゆっくりと、けれど明確に首を振った。
「それは無理よ、エリシア。実践の場での実績は、必ず見ている人がいるわ。誰が本当の働きかけをしたのかなんて、医療の本家であるヴァルツァー家の方々には、すぐにばれてしまうと思うの」
事実を淡々と告げると、エリシアの顔が怒りで醜く歪んだ。
「うるさいわね! これまでだって誰にもばれなかったんだから、あんたはいつも通りわたしに手柄を譲って黙っていればいいのよ!」
(無理なのよ、エリシア……。貴方が知らないだけで、本当の先生方にはとっくの昔にバレているんだもの)
一瞬、馬車の中に冷たい沈黙が降りる。
すると、二人のやり取りを後ろで見ていた家庭教師のグレイスが、あざ笑うように口を開いた。
「大丈夫ですよ、エリシア嬢。今回の花嫁修業も、私に主導権が与えられておりますから。今後の貴方の評価は、私が正しく侯爵様にお伝えいたします」
グレイスのその言葉に、エリシアは瞬時に満面の笑みを浮かべた。
「さすが先生、頼りになるー! じゃあ、いくら侯爵家とはいえ安心ね!」
そう語っていても、私の存在自体がやはり気に入らないのだろう。エリシアはぎろり、と獣のような目で私を睨みつける。
「今後も絶対に余計なことはしないで。あんたは黙って、わたしの後ろに隠れていればいいのよ」
その言葉に、私はもう何も返さなかった。ガタゴトと揺れる馬車の振動だけが、私の沈黙の代わりに答える。これでいい。私は、ただ静かにこの花嫁修業という名の茶番の終わりを迎え、身を引くだけなのだから。
やがて馬車が止まり、扉が開かれた。
すると驚いたことに、ヴァルツァー侯爵邸の総門の前には、次期当主であるレオンハルト様自らが、私たちの出迎えのために佇んでいたのだ。
「ようこそ、ヴァルツァー侯爵家へ。長旅でお疲れでしょう、さぁ、どうぞ」
「あ、お出迎えありがとうございま……」
「まぁ、レオンハルト様ぁ! アリア、さっさと降りてよ! 次はわたしよ!」
エリシアが私を突き退けるようにして身を乗り出す。……だが、レオンハルト様の視線は、エリシアには一微塵も向いていなかった。まるでそこに『有機物』が存在していないかのように完全に無視し、ただ私だけを熱烈に射抜いていた。
彼は真っ直ぐに馬車の中へ手を差し伸べると、私がステップを降りるのを優しく支え、私の手元にあった小さな手提げバッグを、当然のような自然さで自ら受け取ってくれたのだ。
すらりと高い身長。きらきらと輝く極上のシルバーグレー。日の光の下で見ると、その彫刻のように美しい笑顔すら眩しくて、私はあの庭園の紳士を思い出してしまい、再び胸が締めつけられて涙が出そうになる。
「お出迎えありがとうございます……。あの、カバンなら自分で持てますから」
続けて馬車から這い出てきたエリシアが、「レオンハルト様ぁ!」と甘ったるい声を出す。
だが、レオンハルト様はエリシアを『透明な空気』として完全に背景と同化させると、ふいっと背を向け、私をエスコートするためにその逞しい腕を差し出してきたのだ。
「え、あ、あの……? レオンハルト様?」
置いてきぼりにされたエリシアが、間抜けな声を上げて総門の前で完全凍結している。
「あの……小侯爵様、妹が……」
あまりのガン無視っぷりに私がハラハラしていると、レオンハルト様は平然と私に問いかけてきた。
「アリア嬢、他にご令嬢の荷物はどれですか? ヴァルツァー家の僕が直接お持ちします」
「あっ、いえ、それだけです……! あの、自分の荷物くらい、自分で持てますから……っ!」
(レオンハルト様、口調が少し砕けたような? これが本来の彼の話し方なのかしら?)
私の後ろでは、侯爵家の使用人たちが、エリシアの山のような衣装箱をうんざりした顔で背負い、持ち上げている。そのあまりにも残酷なまでの「扱いの差」に、私は呆気にとられてしまった。これではまるで、私が彼に贔屓されているようではないか。彼はエリシアの婚約者候補のはずなのに。
私は慌てて、彼の手からバッグを引き戻そうと手を伸ばした。
だが、その瞬間――差し出した私の手は、レオンハルト様の大きくて暖かい掌によって、逃がさないとばかりにぎゅっと力強く握り締められた。
「……っ!?」
驚いて見上げると、彼の鉄面皮の裏側から、あの夜の紳士にどこか似た、酷く独占欲の強い、そしてどこか狂気を孕んだ甘やかな視線が私を捉えていた。
「さあ、行きましょう。貴女のお部屋は、僕の部屋のすぐ隣に用意させましたから」
「ええっ!? それはどういう……」
「夜、何かあっても、すぐに僕が駆けつけられますから。……万全の『医療体制』です」
真顔(鉄面皮)でとんでもない重婚ストーカーのような台詞を吐くレオンハルト様。
混乱する私を他所に、彼は私の手を引いたまま、有無を言わせぬ確固たる足取りで、きらびやかなお屋敷の中へと私を案内していくのだった。
後ろでエリシアとグレイスが「な、なんなのよあれーーー!」「小侯爵様、お待ちください!」と地団駄を踏み、大騒ぎしている気配を感じながらも、私は彼の強引で優しい熱に、ただただ圧倒されるしかなかった。




