まさかの辞退(事態)
僕の胸を騒がせていた最悪の予感は、あまりにも残酷な、そしてあまりにも不条理な形で的中した。
グレインフィール伯爵夫妻が、我がヴァルツァー家の次期侯爵夫人にと満面の笑みで差し出してきたのは――あろうことか、あの醜悪な妹、エリシアの方だったのだ。
当然ながら、そんな珍獣は僕の人生において一微塵もお呼びではない。そのあまりの慇懃無礼さと浅薄さは、会話が始まった途端、瞬時にこの場の空気に曝け出されることとなった。
「ええ、ヴァルツァー侯爵家という偉大な家柄のお力になれるよう、娘たちには幼少期より、それはそれは厳しい教育を施してまいりましたのよ。とくに、こちらの妹のエリシアは、大変明るく、愛嬌があり、社交界でも大変な評判をいただいておりますの」
「まあ、そうなのですか……。それは素晴らしいことですわね」
母が、完璧な社交用の笑顔(鉄面皮)を張り付かせ、大人の対応で素知らぬ顔のまま話題を合わせている。僕から事前に熱烈な報告を聞かされ、僕が心に決めた本物の『才女』がどちらであるかを完全に知っているからこその、冷徹な観察の目だ。
「はい。社交界でも誰とでもすぐに打ち解け、その場をパッと明るくできる子でして。まさに、次期侯爵夫人という貴族の奥方に相応しい器量だと親馬鹿ながら感じておりますのよ」
「それは頼もしいですね。我が家は医療も大事ですが、貴族としての社交も必要ですから」
だが、僕が誘導などしなくても、エリシア嬢のご臨終は確定的だった。
「ええ、その通りですわ、お義母様!」
まだ正式な婚約も交わしていない段階で、不躾にもテーブルをバシバシと叩きながら立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出してきたエリシア。
(……なるほどな、珍獣め。淑女のマナーも、状況のシリアスさも、すべてぶっ飛ばしてそう来たか)
そのあまりにも品性の欠片もない発言と挙動で、我が両親にも「エリシアという選択肢は一秒で除外」という結論が完全に伝わった。
父と母は、こういう『招かれざる客』を前にした時、お互いにしか分からない呼吸で強烈なサインを送り合う。医師として、あるいは病院経営者として、目の前の個体を冷徹に「診断」するのだ。
「――ははは、大変元気なお嬢さんですね。……なあ、レオンハルト?」
(おいおい、これが『グレインフィール家の才女』とは聞いて呆れるな。刺激に対する反応が過剰すぎて、情緒のコントロールが完全に崩壊している。淑女にあってはならない重度の多動症例だぞ。レオン、お前が事前に下した『この個体はナシ』という診断は100%正しかったようだ。一瞬でもお前の観察眼を疑った、この父を許してくれ)
「ええ、素直で、感情豊かなのはとても良いことですわ。……ねえ、レオンハルト?」
(初対面の高位貴族の前でテーブルを叩くなんて、社会的認知機能の著しい欠如ね。ここまで状況判断(TPO)ができないようでは、緻密な連携を要する我が家の医療現場の統括や病院経営には絶対に不向き。有害な医療トラブルしか起こさないわ。なるほど、貴方が早々に『アリア嬢』と決めた理由が、この母にも一瞬で理解できたわ)
二人の視線から、言葉以上の痛烈な裏の心情がレーザービームのように僕へと突き刺さる。
(――だから、僕が事前に言ったでしょう。あの家は異常なんだと)
僕は両親に向けて、呆れたような「合意」の目線を送り返した。
だがここでエリシアが除外されるのは想定内。問題はアリア嬢が我が家に相応しいちゃんとした淑女なのかどうかという点だ。そして、僕がこれほど愛し、あの夜に想いを通わせたはずのアリア自身の気持ちだった。
父は僕の焦りを察し、自然な口調で彼女の真意を探るべく助け舟を出してくれた。
「ふむ。エリシア嬢はこの縁談に非常に前向きなようだね。だが私は、若者本人の意思を何よりも尊重したいと思っているのだ。……アリア嬢、貴女は今回のこの縁談について、どう思われるかね?」
父の問いかけに、僕の全身の神経はむき出しになり、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いた。あの薔薇の庭園の夜のように、僕を「お慕いしております」と受け入れてくれることを、僕は切に願っていた。
だって、彼女は一度、僕のプロポーズを確かに受け入れてくれたのだ。僕はどんなに不穏な空気を察していようとも、彼女にここで拒絶されるなど、夢にも思っていなかった。本館には、今夜から彼女が使うための最高級の部屋だってすでに完璧に準備させてある。後はただ、彼女に「はい」と答えてもらうだけで、すべてが救われるはずだった。
だが。僕が決定的に見落としていた『致命的な事実』――僕がその名を彼女に名乗らなかったという最大の過失が、彼女に僕のすべてを拒絶させてしまうという、最悪の事態を招いてしまった。
「……恐れ入ります、ヴァルツァー侯爵閣下」
アリアはゆっくりと立ち上がり、消え入りそうな、けれど凛とした声でこう紡いだ。その振る舞いこそ僕らの期待以上だった。だが、彼女の口から零れ落ちたのは、僕の胸を抉る絶望の言葉だった。
「お恥ずかしながら……私は、ヴァルツァー侯爵家という栄えあるお家柄に並ぶには、あまりにも不徳で、何の価値もない身でございます。妹のエリシアは大変明るく、華やかで、社交界でも多くの方に愛される、我が家の類稀なる至宝にございます。……我がグレインフィール家から、侯爵家の次期夫人という重責を担う婚約者として相応しいのは、妹のエリシアの方だと、私は考えております。ですので、この縁談、私は……身を引きたく存じます」
その言葉が応接間に落ちた瞬間。部屋の温度が完全に氷結した。
我がヴァルツァー侯爵家と、グレインフィール伯爵家の間に、天地がひっくり返るほどの巨大な『齟齬』が、真っ向からの対立する形となってしまった。
(……どうして? 君は、僕を待っていると言ってくれたじゃないか……! あの夜の誓いは、すべて嘘だったのか……!?)
頭を鈍器で殴られたような衝撃。愛する彼女に、その存在意義すら全否定されるような絶望の淵へと真っ逆さまに突き落とされ、僕の視界は一瞬で真っ暗に染まった。あまりの衝撃に、肋骨の奥が悲鳴をあげるほど心臓が痛い。
けれど――奇妙だった。
「身を引く」と告げた彼女の横顔は、僕を嫌悪しているようにはどうしても見えなかった。むしろ、その新緑の瞳に湛えられているのは、身を切られるような悲痛さと、何か大切なものを守るために己を犠牲にしようとする、あまりにも深い『絶望』だった。
(まさかアリアは、僕と出会うより前に、別の誰かに心を奪われて……いや、そんなはずはない。あの夜、彼女は確かに僕の腕の中で、僕のプロポーズに頷いたんだ。ならばなぜ、僕の目の前で、僕を拒絶する?)
何かがおかしい。僕たちは、どこかで決定的な掛け違いをしている――。
押し寄せる絶望と混乱を理性の力で強引にねじ伏せ、僕は事態を早急に打開し、この狂った運命を正すべく、即座に次の一手を打つために冷徹に頭脳を回転させ始めた。




