深まる陰謀、歪められた純白
僕はそれからまた、一切の夜会へは顔を出さなくなった。元々はアリアに会うためだけに、柄にもなく着飾って参加した場だ。そこに彼女がいないのであれば、僕にとってはただの時間の無駄でしかない。僕は父が進めてくれている「正式な顔合わせの日」を指折り数えて心待ちにしながら、退屈を紛らわすように医療の仕事へと没頭した。
しかし、僕の預かり知らぬところで、不穏な影は確実に動き始めていた。
「ねぇ、アルベルト。本当にグレインフィールの娘を我が家に嫁がせて大丈夫なの? 今からでも、他の信頼できる侯爵家や伯爵家に候補者を打診するべきじゃないかしら……」
「そうは言ってもな、セレナ。当の本人がこれほど婚姻に前向きなのだ。一度、その噂のアリア嬢とやらをこの目で見てみようじゃないか」
リビングの扉越しに聞こえてきた両親の会話に、僕は眉をひそめた。どうやら僕が夜会に出ない間、社交界でアリアに関する不穏な動きがあったらしい。だが、一度彼女と魂を交わした僕には、彼女の品性と教養が嫌というほど分かっている。僕は部屋に入ると、かつてノアが僕に言った言葉をそのまま口にして両親を深く射すくめた。
「そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ。一度彼女に会えば、全ての疑問は氷解します」
そうして僕は両親を納得させた。アリアを信じる気持ちに、一微塵の揺らぎもなかった。
そんなある日、親友のキースが突然の発熱で倒れたとの急報が入り、僕はすぐさま往診鞄を手に、彼の実家であるアークレイン侯爵邸へと馬車を走らせた。
キースは生まれつき呼吸器系がやや弱く、疲労が溜まるとすぐに高熱を出す気質がある。幼い頃、父の往診に付いて回っていた僕が、初めて一人で診察し、適切な処置を施した『最初の患者』こそが彼だった。
「……すまない、レオン。こんなことで呼び出してしまって。自分でも気をつけてはいたんだが……」
「気を付けていながら、雨の中で訓練に励んだのか? まぁ、この間の夜会で手配をしてくれたお礼だと思ってくれ。特製の解熱薬を処方したから、一眠りすれば明日の朝には良くなるはずだ」
「ふふ、ありがとうな……。お前が主治医でいてくれて、本当に心強いよ」
ベッドに横たわるキースの傍らで、いかにも気まずそうに縮こまって控えているのはノアだった。近衛騎士の家系である彼は、キースの体調が良い日には、よく二人で剣術の鍛練を行っている。今回も二人で白熱しすぎてしまったのだろう。
「本当にごめん、レオン……。キース悪くなったりしないよな?僕、また加減を間違えてやっちゃって……」
「人の心配をする前に、自分のその傷はどうなんだ。……早く診せてみろ」
僕は溜息をつきながら、手際よくノアの傷口を消毒し、包帯で固定していく。関節が完全に炎症を起こして熱を持っていたため、すぐに冷却処置も施した。
「怪我人を治すのが僕の務めだ。だが、いくら頑強な騎士だからといって無茶はしないでくれ。化膿して業務に差し支えたら困るのは君だろう」
「ああ、ありがとう! やっぱりレオンの処置は痛くないし、すぐに楽になるな」
二人が武家の家系でありながら、文系の僕とこれほど深い交流を続けているのも、この医療を通じた信頼があるからだろう。彼らにとって僕は親友であると同時に、命と身体を預ける主治医なのだ。だからこそ二人は、僕の婚約者話を我が事のように応援してくれている。
しかし、ノアの包帯を巻き終えたその時、僕が夜会に出なくなってからの社交界の「毒」が、二人の口から飛び出してきた。
「――そういえば、レオン。こんな時になんだが、リア先生……アリア嬢とのこと、どうなっているんだ? 最近、彼女について非常に質の悪い噂が流れているんだ」
「噂……? アリアが? だが、彼女は夜会には参加していないはずだが」
僕の不審げな言葉に、ノアの表情が苦渋に歪む。
「いや、違うんだ。なんでも最近、夜会に姿を現した『グレインフィール家のアリア嬢』は、男漁りが酷くて、高位貴族への品定めばかりしているらしい。その上、マナーも教養もなっていない、口を開けば他人の悪口ばかりの、とんでもなく下品な女だって……そんな悪評が社交界を駆け巡っているんだよ」
「……そんなわけがない!!」
僕は激昂し、診察道具を机に叩きつけて立ち上がった。激しい怒りで目の前が暗くなる。
「あの夜会で僕が見たアリアは、泥に塗れてなお誰よりも気高く、完璧な所作でお辞儀ができる人だった! 医学を愛し、人の命を尊ぶ高潔な魂を持った女性だ! ……まさか。あの、外側が同じなだけの珍獣が……!」
グレインフィール家の才女という栄誉だけではあきたらず、今度は『アリア』の名まで利用して、自分の醜悪な素行の身代わりにしているというのか。あまりの邪悪さに、胃の腑がどす黒い怒りで焼けるようだった。このことが両親の耳に入ったからこそ、母はあんなに不安そうな顔をしていたのだ。
「僕だって信じてないさ。だからこそ、あの地獄から早く彼女を引きはがしてほしいんだ」
すると、ベッドで横になっていたキースが、激しく咳き込みながらも、僕を全面的に支持するように声を絞り出した。
「……ゴホッ、ゴホッ! ああ、二人の言う通りだ。その噂の主は、絶対にアリア嬢じゃない。実は……うちの侯爵邸で雇っている臨時の家庭教師と、グレインフィール家に通っている教師の一人が、同じ人物なんだよ」
「え……? それは本当かい、キース」
「ああ。グレインフィール伯爵は、お前たちヴァルツァー侯爵家に娘を嫁がせるために、昔から教育にはかなり金をかけていたらしい。その教師の話によると……」
キースの声音が、怒りと軽蔑を孕んで硬くなる。
「姉のアリア嬢は驚くほど頭脳明晰で、非常に真面目。誰も見ていないところでも自分から率先して難解な書物を読み漁り、勉学に取り組む本物の天才らしいぞ」
「さすがリア先生……!」
ノアが「やっぱりな」とばかりに、僕と同じ勉強オタクのタイプだとでも言いたげな顔でこちらを見て、嬉しそうに目を輝かせている。
「なんだよ」
「別に」
僕が睨むと、ノアは気まずそうにそっぽ向いた。
「だが、一方で……妹のエリシア嬢はというと……」
キースは、あまりの酷さに一度言葉を選んだ。
「彼女は勉強はおろか、気を抜けば礼儀作法も壊滅的らしい。教師陣が何度もエリシア嬢の素行の悪さを伯爵夫妻に直訴しようとしても、あの夫婦は『アリアが妹の功績を奪った過去を引き合いに出し、エリシアとアリアを間違えている』と決めつけて、一切聞き耳を持たなかったらしい……」
「な……んだって……?」
あまりの理不尽な虐待の実態に、僕の指先が怒りで小刻みに震え出した。
「とにかく、社交界で流れているその下品な『アリア嬢』の噂の主は、妹が、実の姉を貶めるために名前を騙っているんだと俺も思う。……ゴホッ、ゴホッ!」
「キース、もういい、喋らないでくれ。……ありがとう、そこまで調べて、話してくれて」
キースが話してくれた事実は、僕のカルテに刻まれた。アリアがあの家で冷遇されているのは、彼女が「妹の功績を奪った」とされているためだ。でも、事実彼女は自分の実力を発表しただけで妹の功績を奪ってなどいない。そんな虚言を証明できるのは、彼女たちの論文を何の苦も無く入手でき、我がヴァルツァーから派遣した家庭教師グレイスしかいない。
(なるほど、彼女の論文を奪うために、エリシア嬢に協力したわけだ……。そりゃ、アリア嬢のことを僕にも、両親にも話したくないわけだ)
親友二人が、病床にありながらも僕のためにそこまで憤り、情報を集めてくれたことへの感謝。そして、アリアが今この瞬間も、自分の名前を汚されながら暗い檻の中で耐えているというのに、今すぐ救いに行けない己の無力さ。
脳が焼き切れるほどの激しい焦燥感と怒りが、僕の胸を支配した。
(待っていてくれ、アリア。次の正式な顔合わせの席で、僕は必ず、貴女を僕の、ヴァルツァー家の正妻にする――)
その暁には、君の純白の名誉を世界に証明し、君を貶めたグレインフィール伯爵家と、あの裏切り者の教師に、貴方が受けた以上の地獄の苦しみを与えてやる。
冷徹な鉄面皮の裏で、僕は獲物を確実に屠るための黒く燃え盛るような執念を、静かに研ぎ澄ませていた。




