侯爵夫妻の受難と、鉄面皮の宣戦布告
ヴァルツァー侯爵邸に帰着するなり、僕はまだ夜会の正装も解かないまま、リビングにいた両親の前に詰め寄っていた。
「お父様、お母様。僕は、アリア・グレインフィール嬢との結婚を完全に決意しました。どうか、一刻も早く、正式な婚姻の手続きを進めてはいただけないでしょうか。明日、いや今すぐにでも結納の品を揃えて伯爵邸へ突撃すべきです」
「「ぶっっっ!!!!!!」」
静まり返った夜の応接室に、品位の欠片もない凄まじい破裂音が響いた。
僕のあまりに突飛な第一声に、優雅に夜のお茶を楽しんでいた最高位貴族の夫妻が、揃って見事に紅茶を正面に噴き出した。そこから「ゲホッ、ゴホッ!」「ケホッ、ケホッ……!」と、二人で大合唱のように激しくむせ込んでいる。
「レ、レオン……お前、何を……ゲホッ! 今日が、お前たちの初めての対面だったはずだが……!? 事情を知っていたとはいえ、あまりにも気が早すぎる、というか、脳の血管でも破裂したのか!?」
絹のハンカチで必死に顔を拭いながら唖然とする父に対し、僕は先ほどノアが言っていた完璧な(と僕が都合よく解釈した)ロジックを展開し、一秒でも早く我が家を動かすための弁論を早口で開始した。
「いいえ、早すぎることはありません。僕たちは元々、家格的にも婚姻を前提とした婚約者候補だったのですし、先ほど月下でアリア本人からも、明確に『生涯を共に歩む』というプロポーズの了承を得てきました。相思相愛です。何より、僕がこれ以上態度を保留にしていれば、もう一人の候補である妹のエリシア嬢を無駄に縛ることになり、彼女の他家への婚姻の機会を長引かせてしまいます。早めに本命を決めて、向こうの家を自由にしてあげるのが、ヴァルツァー家としての損のない紳士的かつ合理的な選択かと。それに、アリアは医学の知識も恐ろしいほど深い。肥満細胞から寒冷刺激における免疫力低下のメカニズムまでを完璧に網羅している。一度話してみれば、彼女が我が家の伴侶にどれほど相応しいか、一目瞭然です!」
「そ、そうなの? ……レオン、少し落ち着きなさい! 貴方のその、目が完全に据わっているわよ!?」
母は困惑と恐怖の混ざった顔で僕の手を包み、宥めようとする。両親の言うことは至極真っ当だった。けれど、僕がこれほど血気に逸っているのは、単なる初恋の暴走ではない。
僕はあの華やかな夜会の裏で、アリアが置かれていたあまりにも凄惨な現実を、淡々と、けれど芯から燃え盛る怒りを込めて両親に説明し始めた。
実の妹が暗闇から彼女を突き飛ばして泥に塗れさせ、辱めを与えたこと。そして、我が子の心身の危機を心配するどころか、世間体だけを気にして罵倒したグレインフィール伯爵夫妻の狂気。そして、それほど多大な薬草事業の功績を持ちながら、精神的に追い詰められて自信を完全に喪失してしまっているアリアの悲痛な現状――。
医師の家系として、人の命と尊厳を何よりも重んじる我がヴァルツァー家にとって、それは到底看過できない醜聞だった。僕の言葉を聞くうちに、両親の顔から先ほどのコミカルな色は消え失せ、血の気が引き、やがて怒りに満ちた息をのんだ。
「えっ!?? 突き飛ばした……? エリシア嬢が、実の姉を……!? そんな淑女にあるまじき狂挙を!? レオン、貴方の上着がないと思ったら、まさか……。家族が揃って、あの子をそこまで虐げているというの……? そんなこと、私は絶対に許しませんよ!」
母はショックのあまり顔を覆い、父を見た。父は深く頭を抱え、重い悔痕と怒りの入り混じった溜息を漏らす。
「娘たちの気持ちを最優先にと、あいつにはあれほど念を押して伝えてあったというのに……。ロベルトの奴、私に過去の恩義を返すことに囚われるあまり、本質を見失って我が子を道具にしたか。……完全に、私の見落としだ」
父は苦渋に満ちた表情で顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「わかった、レオン。グレインフィール家には、早急に正式な顔合わせができるよう日程をこちらから指定しよう。しかし、お前たちもまだ一度しか話していないんだ。これからお前も夜会や茶会には積極的に参加し、しっかりアリア嬢をサポートし、話し合いなさい」
「はい。喜んで」
(――これで、また大手を振って彼女に会える)
そう思うだけで、あれほど退屈で大嫌いだった社交界の夜会に参加する日々が、まるで天国への階段のように思えてくる。今まで「衣服など、布を纏っていれば何でもいい」と豪語していたくせに、全く自分でも現金な奴だと呆れてしまうが、僕は次からの夜会、アリアに少しでもよく見られるよう、衣装の仕立てや髪のセットにも抜かりなく、完璧に己を磨き上げて場に臨んだ。
――しかし。いざグレインフィール家が参加する夜会に足を運んでも、僕の視界に、あの気高き『月下美人』の姿が一向に現れることはなかった。
代わりに、まるで僕の行く手を阻むように、あの悪趣味な影がしゃしゃり出てくるのだ。
「レオンハルト様、こんなところでお会いできるなんて、社交界にでてきた甲斐がありますわ」
「おぉ、ヴァルツァー小侯爵様、先日は王城のパーティーでお会いできず大変残念に思っておりました」
満面のご都合主義な薄っぺらい笑みを浮かべ、扇子を翻してくる妹と両親。
あの最初の夜会で、僕が彼女の悪行を冷徹に見つめていたことなど一微塵も気づいていないらしい。他の男を侍らせ、実の姉を泥に突き落としたその手で、よくぞこれほど堂々と僕に擦り寄ってこられたものだと、むしろその鳥頭な忘却力には称賛すら覚える。
(彼女と婚約する以上、彼女の一応の家族を無下に扱えないとは……。いや、待てよ。ここで僕がこの偽物を完膚なきまでに論破すれば、アリアの元へ行く最短ルートになるのでは?)
僕は内心の激しい嫌悪感を押し殺し、いつもの「絶対零度の鉄面皮」を深く被り直して、彼女の『虚飾』の皮を剥ぎ取るための極上の罠を仕掛けた。
「お久しぶりです、エリシア嬢。……どうです。貴方が生み出したあの素晴らしい薬草事業の土壌選定や成分抽出のシステムについて、僕に詳しく話していただく気になりましたか? ぜひ、その薬効成分が人体の上気道粘膜に与える急性局所炎症の抑制効果について、それを知るに至った最初の臨床的きっかけから、朝までじっくりと語り合いたいものです。何なら今から別室へ移りましょうか」
「え……? あ、あえ……? じょ、上気、……え?」
先日アリア本人から聞いて感動した内容をベースに、僕は医師の本家としてごく基礎的な「医療の専門用語」をほんの少し交えて美しく微笑んだ。
その瞬間、エリシアの完璧に塗り固められた笑顔が、目に見えて引きつった。
彼女の大きな瞳が、パニックで右往左往と泳ぎ始める。
「あ、あの、それは……ええ、そうですの、とても大変で……! で、ですが、今日のところは、その……私、専門的なお話はちょっと頭が痛くなってしまいますの! また後日、お屋敷でお会いした時にでもゆっくりと……!」
「おや、専門的な話は頭が痛くなる? 自分で論文を書いておきながら、随分と面白い脳の構造をしていらっしゃる。僕は今、非常に知的好奇心を刺激されているのですが」
僕がさらに一歩詰め寄ると、彼女はボロが出る恐怖に耐えかねたように、引きつった笑みを浮かべたまま「それでは、あちらでお友達が呼んでおりますので!」と言い残し、ドレスの裾を振り乱して僕の前から逃げ出していった。
(ハッ、聞いて呆れるな……。『才女』の看板が泣いているぞ)
僕がほんの少し医学の話題を口にすれば、追いつくこともできずにすぐに尻尾を巻いて逃げ出すような女。彼女から逃げることなど、僕にとっては赤子の手をひねるより容易だった。エリシアは嘘を取り繕うための最低限の知性すら持ち合わせていないのだから。
しかし、エリシアがこうして我が物顔で社交界を泳ぎ回っているということは、やはりアリアは――あの理不尽な実家によって、華やかな表舞台に出ることすら許されず、今も屋敷の奥深くで冷遇され続けているに違いない。
(待っていてくれ、僕のアリア。今すぐその檻を叩き壊して、君を僕の腕の中に奪い去ってあげるからね)
彼女をあの泥沼から引きずり出すため、僕の胸の中の炎は、静かに、けれど狂おしいほど激しく燃え上がっていた。




