月下の誓約、幸福なる不覚
今までどれだけ歪んだ環境で虐げられ、人としての尊厳を奪われて生きてきたのだろう。これほど見事な教養を持ちながら、こんな当然の称賛すら、今までの彼女の人生には一度もなかったというのか。
僕は医学の徒として、そして一人の男として、至極当然の事実を口にしただけだ。だが、それが彼女にとっては、凍えた魂を救うこの上ない慰めになってしまっていた。
「……ありがとうございます。そう言って頂けて、本当に嬉しいです。今日という日は私にとって最悪の始まりでしたが、貴方様のおかげで、人生で一番、有意義で温かい時間になりました。私のような日陰者の出来損ないを、これほど素敵な紳士に気に留めていただけるなんて、身に余る光栄です」
「素敵な紳士……? 貴女は、私のことをそのように思ってくれるのですか?」
思っていたよりも、彼女の僕に対する評価は劇的なほどに良好だった。今、彼女の本心を聞き出すのは、僕にとってもこれ以上ない絶好のチャンスに違いない。
「もちろんです。会場でも、貴方のご活躍に多くの高貴なご令嬢方が釘付けになっていましたわ。貴方様ほどの高潔で美しいお方であれば、きっと近いうちに、素晴らしい良縁に恵まれること間違いありません」
何故、自分の公式な婚約者候補である僕を、わざわざ他の令嬢に宛がおうなどとするのだろうか。そこまであの冷酷な家は、彼女から自信を毟り取ってきたのだろうか。だが、僕が今知りたいのはそんな他人の話ではない。アリア、貴方を無理に連れ去るような無礼な男でいたくはない。だから、どうか僕のこの溢れんばかりの気持ちに、答えてくれないだろうか。
「他の令嬢など、どうでもいいのです。……私は、他の誰でもない『貴女』の気持ちを聞いているのですよ」
「っ――――!」
まるで精緻な人形でいた彼女が、一瞬で顔をカッと赤く染め、僕の前から弾かれたように身を引いていく。
そのあまりに純情な反応に、僕は内心で確信を持った。今、この手を離してはならない。僕は彼女を優しく追い詰めるべく、その寒さに強張った小さな両手を、僕の大きな掌でそっと包み込んだ。
「夜風ですっかり冷えてしまいましたね。こんなに健気で、小さな手が……」
「あっ、あの……っ」
彼女の頭の中が、激しい鼓動でパニックに陥っているのが伝わってくる。その深いエメラルドグリーンの瞳が、僕の至近距離の視線に捉えられて激しく震えていた。絶対に逃がさない。
たった一度、今夜初めて言葉を交わしただけで生涯の伴侶を決めるなど、あまりに早計だ。彼女にここまで気持ちを迫るのが早すぎることも、重々分かっていた。でも、運命のチャンスは人生に何度も訪れるわけではない。今、この瞬間、彼女を僕の世界に繋ぎ留めなければならないと、僕の野生が告げていた。
「それで……貴女は、私のことをどう思っているのですか?」
言った。言ってしまった。
後は、彼女の答えを聞き出すだけだ。お願いだ、彼女も僕と同じ気持ちであってくれ――。
神に祈るような心地で、僕は必死に彼女の瞳を見つめた。
やがて、彼女は恥ずかしさと、何か人生を賭けた重い決意を秘めたような、消え入りそうな震える声でこう答えてくれた。
「わ、私なら……もし、貴方様からの申し出であれば……喜んで、お受けすると……お慕い、すると、思います……っ」
彼女の口からその愛おしい言葉が漏らされた瞬間、僕たちの心は完全に繋がったのだと確信した。この一生に一度の好機を逃すまいと、僕は完全に浮き足立っていた。彼女の目の前で片膝をつき、しっかりとその瞳を見据える。
「私は貴方と生涯を共に歩みたい。どうか、私の申し出を受けてください。僕の妻になってほしい」
彼女は、僕の突然の電撃プロポーズに驚愕し、顔を真っ赤に染めながらも、ポロポロと大粒の涙を浮かべて頷いてくれた。
「はいっ……!」
その言葉を鼓膜が拾った瞬間、僕は人生最上の、身体が焦げてしまいそうなほどの歓喜に包まれた。
あまりの愛おしさに理性が吹き飛び、思わず淑女の唇を奪ってしまいそうになるのをどうにか諫めて、彼女の額へと熱い口づけを落とす。すると、彼女はさらに顔を真っ赤に染め上げた。
「あはは! まるで熟したリンゴのようですね」
普段の冷静沈着な僕からは想像もつかないほど、お腹を抱えて無邪気に笑ってしまった。さらにそのまま彼女の細い身体を腕の中に力強く抱きしめると、彼女は驚きで完全に硬直してしまった。
僕の一連の奇行は、高位貴族の紳士にあるまじき暴挙だろう。でも、完全に想いが通じ合った今、他にこの爆発しそうな喜びを表現できる術はなかった。
「――必ず、貴女をあの家から連れ出しに来ます。だから、他の誰の言葉も気にせず、私だけを信じて、待っていてくれませんか?」
「――はい。……お慕いしております。私も、貴方様だけを信じてお待ちしております」
月光の下、僕は最愛の彼女と向き合い、未来の婚姻の約束を確固たるものとして交わしたのだ。
本当は朝が来るまで一緒に語らいたかったが、濡れたドレスでこれ以上彼女を拘束するわけにはいかない。キースたちが手配してくれた馬車の準備が整った合図を皮切りに、僕は僕の上着を羽織った彼女を極上のマナーでエスコートし、馬車へと乗せ、王城の門を去るまで愛おしげに見送った。
(一刻も早くお父様とお母様に、グレインフィール伯爵家との婚約の話を、身代わりの妹ではなく『姉のアリア令嬢』で正式に進めるよう言わなくては――!)
満ち足りた幸福感に包まれながら、僕はやっとパーティー会場へと戻ったのだった。
――そう、この時の僕は、完全に浮かれすぎて失念していた。
お互いに魂の言語で語らい合い、当然のように婚約の約束まで交わしたというのに、あまりの熱狂に脳が麻痺し、『自分の名前を名乗る』という最も初歩的な手続きをしていないことに。
まさか目の前の彼女が、僕のことを「婚約者候補であるヴァルツァー小侯爵」だとは一微塵も気づいておらず、
(ヤバい、初対面の他人の男性を好きになってしまった……。でも、ヴァルツァー家との縁談はエリシアのものだわ。私は実家にどんな仕打ちを受けようとも、絶対にあの不本意な婚姻を解消し、この運命の彼と結ばれるんだ――!)
という、純粋ゆえの悲壮な絶望と、愛のための凄まじい覚悟を抱いて、あの馬車に揺られていったなど――。
この時の僕は、夢にも思っていなかったのである。




