偽りの才女、本物の証明
夜風がにわかに冷え込んできた。僕の大きなコートに包まれていながらも、濡れたドレスが体温を奪うのか、彼女の華奢な身体が再びかすかに震え始めた。それを見た僕は、自分でも制御できないほど、またしても異常なまでの過保護モードのスイッチが入ってしまう。
「いけませんね、しっかり身体を温めないと。寒冷刺激によって防衛体力が低下すれば、急性の上気道炎……いわゆる『風邪』だけでなく、急性咽頭炎や思わぬ二次感染症の引き金になりかねませんから」
自分を抑えるというのは、これほど難しいことだったろうか。彼女が医学の言語を完璧に理解できると知った今、僕の理性のストッパーは完全に外れてしまっていた。
最高位貴族の跡取りとして、これ以上ないほど大真面目な顔で心配する僕を見て、彼女はまたしても堪えきれないように、小さな鈴を転がすような声で微かに笑った。
「ふふ……っ。あ、何度も大変失礼いたしました。ですがお優しいお方、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。風邪などの急性呼吸器疾患の多くは、寒冷そのものよりも飛沫や接触によるウイルスや細菌の感染が主因ですから。これだけ空気の澄んだ開けた庭園で、かつ防衛体力(基礎免疫)の高いこの暖かい時期であれば、寒冷刺激の単一因子だけで発症するリスクは極めて低いですわ」
淀みなく、あまりにも完璧な医学的根拠を言い切った直後――。
「あ」と彼女は小さく声を漏らし、まるで世界が終わったかのようにみるみる顔を青ざめさせていった。両手で慌てて口元を覆い、怯えたように僕の反応を伺っている。
(……何から何まで僕と同じだ。こんな奇跡が、本当に現実にあるのだろうか)
きっと彼女も僕と同じように、周囲から「医学オタクの変わり者」と煙たがられ、己の知識を隠す癖がついてしまっているのだろう。愛おしさが胸の奥から溢れ出す。
僕が彼女の「婚約者候補」だと知っているからこそ、萎縮しながらも一生懸命に勉強の成果を見せてくれた――そんな健気な勘違い(と僕は思い込んでいた)すらも、ただただ愛おしかった。
それから僕たちは、薔薇の香りに包まれた静寂の庭園で、憑りつかれたように多くのことを語り合った。
やがて話題は、僕が最も関心を寄せていた、グレインフィール伯爵領での薬草事業へと移っていく。彼女が語るその内容は、過去エリシアが何一つ答えられずにはぐらかし続けた、あの「検証論文」のプロセスそのものだった。
「あの薬草の有効成分は、熱に非常に脆弱なのです。ですから、成分を損なわずに免疫力を高める抽出液を作るには、化学合成ではなく、土壌の選定から減圧低温抽出にいたるまで、並々ならぬ温度管理が必要になりますわ。患者様のお身体に直接投与されるものですから、自然由来の成分をいかに純粋に保つかが一番重要なのです」
彼女の口から滑り出す知識は、どれも現場で血の滲むような臨床を重ねた者だけが持つ、圧倒的な説得力に満ちていた。やはり、あの歴史的な論文を書いたのは、目の前にいるこの少女だ。確信が僕の胸を震わせる。
「ええ、よく知っていますよ。グレインフィールの安定した薬草供給のおかげで、多くの平民が救われている。実に素晴らしい、歴史に残る功績だ」
心からの極上の賛辞を贈った。しかし、僕の言葉を聞いた瞬間、彼女はまるで鋭利な刃物で刺されたかのように痛々しく視線を落とし、シルクの手袋越しに自身の指をきつく噛み締めたのだ。
「そ、そうですね……。妹は、本当に寝る間も惜しんでよく勉強しているのだと思います。……あの子は、本当に凄いですよね……」
その言葉に、僕の脳内で強烈な違和感が弾けた。
目の前で、誰よりも深く医療を愛し、その知識を慈しむように語るこの彼女こそが、本物の「グレインフィール家の才女」だ。だが、どうしてこの人は、自分の命を削るような功績を、あの下俗な妹のものだと主張するのか。
(……おかしい。何かが致命的に歪んでいる。彼女が家を飛び出して平民の医師をしていたことといい、あの伯爵家の中で一体何が起きているんだ?)
僕は医師としての、そして次期侯爵としての鋭い観察眼で、彼女の怯えと悲しみの核心へと冷徹に一歩踏み込んだ。
「……どうして、それほど見事な知識を持たれていながら、それをすべて妹君の手柄だと仰るのですか? 論文を書いたのは、本当は貴女でしょう」
静かに、けれど逃げ場をなくすように問いかける僕に、彼女はすべてを諦めたような、痛々しい微笑みを浮かべてこう呟いた。
「――我が家では、そのようになっているのです。天才と称される妹ばかりが両親の寵愛を受け、出来損ないの私は……今日の社交界デビューすらあんな風に失敗してしまいました。……自分が、本当に情けないです」
(いや、なんでそうなるんだ?でも、あの強欲な妹と両親のやることだ。きっと僕には予想もできないことが起きているのだろう)
一刻も早く、この不憫で気高い貴女をあの地獄のような家から連れ出したい。僕の持つ権力と特権のすべてを使って、彼女を不当に貶める有象無象を完膚なきまでに叩き潰し、僕だけの檻で一生守り抜きたい。狂おしいほどの救済の衝動が、僕の胸の奥で爆発した。
「――そんなことは、断じてありません」
僕は彼女の自嘲を、強い声音ではっきりと否定した。驚いて顔を上げた彼女のエメラルドグリーンの瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。
「貴女の持つ医学への深い教養も、理不尽に耐える洗練された品性も、すべて、泥に塗れてなお輝く本物だ。……どうか、これ以上ご自分を卑下しないでください。貴女は、誰よりも誇り高い、僕の理想の女性だ」
僕の真っ直ぐな言葉が、彼女の心を縛っていた頑なな防壁を優しく溶かしたのだろう。今にも大粒の涙を零しそうな彼女は、慌てたように潤んだ瞳を隠した。
どうして、これほど愛おしい女の子を、あの家は揃いもそろって傷つけることができるのだろうか。激しい憤怒が頭を焼く。
これ以上、彼女をあの泥の中に一秒たりとも置いておきたくない。
僕は彼女の心を覆う頑なな仮面を剥ぎ取り、その小さな肩にかかる重荷をすべて僕が背負うべく、ついに、胸の奥で燃え盛る傲慢な独占欲のすべてを、言葉にして解き放つことに決めた。




