月下の共鳴、運命の静寂
王宮の広大な庭園は、今が盛りの薔薇が狂おしいほどに見事に咲き誇り、夜会の喧騒から離れたこの場所には、僕たち以外に人影もなかった。ここなら彼女を心ゆくまで休ませることができるだろう。僕は少し奥まった場所にある、白い大理石のベンチに彼女をそっと誘い、隣同士で座ることにした。
白暗い月明かりに照らされた彼女は、その触れれば折れてしまいそうな線の細さや、絵画のように整った容姿も相まって、まさに『月下美人』という言葉がこれ以上なく似合う。自分の視界はまた都合のいいフィルターによって彼女を過剰に神聖化しているのかもしれない――そう自嘲しかけたけれど、いや、目の前に佇む彼女は、どこをどう切り取っても僕がずっと夢に見ていた理想そのものだった。
夜風が吹き抜け、彼女の柔らかな髪が揺れるたびに、頭髪に付着していた細かな花粉がはらはらと落ちていくのが見えた。
(――このままでは、彼女の綺麗な結膜や呼吸器官に入っては大変だ!)
普段の僕なら他人の衛生状態など冷淡に見守るだけなのに、どうしてだろう、彼女を前にすると、自分でも驚くほど理性を欠いた過保護な男になってしまう。
「目や鼻の周りに、先ほどの花粉が酷く付着してしまっています。僕が拭うので、少しの間だけ、大人しく目を瞑っていてください」
僕はそう言うが早いか、自身の純白のハンカチを手に、彼女の美しい髪についた異物を一刻も早く落とそうと、我ながらかなり強引な至近距離までぐっと顔を詰め寄ってしまった。
「あ、あの……! そんな、そこまでしていただかなくても大丈夫ですわ……!」
当然のように遠慮し、驚いて身を引こうとする彼女。だが、どうしても彼女の健康を完璧に守りたい僕は、自分が持つ最高峰の医療知識をフルに活用して、必死に説得を試みた。
「花粉を侮ってはいけませんよ。粘膜に付着した異物は、時に深刻な局所炎症を引き起こします。もし呼吸器の奥深くまで微細粒子が侵入すれば、気管支の平滑筋が突発的に収縮し、最悪の場合は激しい喘鳴や呼吸困難を誘発することすらある。だから――」
……そこで、僕はハッと我に返り、激しい後悔に襲われた。
やってしまった。これまでどんな貴族と交流しようと、話題にするにはあまりにも専門的すぎて、誰もが「不気味だ」と引いてついてこられなかった知識の数々。会ったばかりの高潔な令嬢を前に、僕は自分が社交界で最も隠さねばならなかった「医学馬鹿」な部分を、重度な過保護の形で早々に露出してしまったのだ。万に一つもない極端なリスクを並べ立てて、狂人だと思われたに違いない。
彼女にも、ついに引かれてしまったのではないか――そう僕が内心で血の気が引くほどの焦燥を覚えた、その瞬間だった。
「ふふ……っ。あ、申し訳ありません、取り乱してしまいました。ですがお優しいお方、そんなにすぐには発症いたしませんよ」
彼女は小さく吹き出すと、僕の過保護っぷりの「中身」を完璧に理解した上で、極めて美しい至高のアンサーを返してきたのだ。
「今回の白いお花はキク科の植物のようですから、確かに接触性皮膚炎やアレルギー性結膜炎のリスクは否定できませんわ。ですが、抗原が侵入して肥満細胞からヒスタミンが放出され、血管透過性が亢進して大量の粘液が分泌されるまでには、まだ数時間の潜伏期があるはずですもの」
ドレスの汚れを払おうとしていた僕の手が、驚愕のあまりピタリと止まった。
(……素晴らしい。なんてことだ……っ!)
背筋がゾクゾクとするほどの歓喜が、脳髄を駆け巡る。
彼女は、僕のあらゆる不安をすべて覆す、正真正銘の「魂の片割れ」だった。思っていた以上に医学に精通し、驚くほど正確な専門知識を持って、この学問に熱意を取り組んできた証拠だ。
僕がどれほど専門的な医療の話題を口に出しても、ドン引きするどころか、その先を行く医学的知見で対等に、いやそれ以上に付いてこられる。
家族以外の他人に、僕の魂の言語である「本物の医学」が通じたという初めての、狂おしいほどの感動。その圧倒的な喜びに、僕は震えるほどに彼女を愛おしい、絶対に手放したくないと思ってしまった。
「……なるほど。確かにその通りですね。I型アレルギーの即時型反応を考慮しても、数時間の猶予はある。ですが、手遅れになる前にすべて落とすに越したことはありません。さあ、大人しくしていてくださいね」
確かな医学的知識の裏付けによって僕を『同類』だと信頼してくれたのだろう、彼女は僕の少し強引な手に乗り、恥ずかしそうに遠慮しながらも、こくりと俯いて柔らかな頭を差し出してくれた。両手で顔を覆うようにして、耳まで真っ赤にして身をすくめている。なんて愛らしい反応なのだろう。
僕は彼女の艶やかな髪や、白く滑らかな頬を、世界に一つだけの壊れ物を扱うように丁寧にハンカチで拭った。けれど、濡れてしまったドレスの繊維だけは、はたく程度ではどうしても落ちない。
「髪や肌の汚れは落とせましたが、せっかくの美しいドレスの繊維に、細かな粒子が染み込んでしまいましたね。綺麗に落ちるといいのですが……」
「いえ、ここまでしていただいただけで、言葉にできないほど感謝しています。私をあの恐ろしい場から救い出し、誰も理解してくださらなかった私の『知識』に耳を傾けてくださって、本当に、本当にありがとうございました」
彼女はすっかり落ち着きを取り戻したのか、ベンチから少し身を起こし、僕に向かって非の打ち所がないほど丁重で、気品に満ちた感謝の礼を行った。
僕は、この社交界デビューの日のために、立ち居振る舞いを一から完璧に叩き込んできて本当に良かったと心の底から思った。これほど綺麗で完璧な所作を行う彼女に対して、自分もヴァルツァー家の男として、何一つ恥じぬ完璧なマナーで応えることができるのだから。
そして、僕自身に知識があるからこそ、彼女がこの日のために、あの地獄のような環境でどれほどの努力と研研を重ねてきたのかも、痛いほど理解できた。
(アリア嬢。君が、僕の運命だ。君以外に、僕の妻になる資格のある女性など、この世に存在しない)
胸の内で確固たる誓いを刻み、僕たちの会話はそれからもしばらく、お互いの知性を確かめ合うように、心地よく続いていった。




