泥濘の薔薇、至高の崇拝
騒然とする周囲の醜悪な雑音をすべて遮断するように、僕は泥と水に塗れた彼女の前に膝をつき、そっとその濡れた頬に、持っていた純白のハンカチを添えた。
「――大丈夫ですか」
彼女は一瞬だけ驚いたようにその深いエメラルドグリーンの目を見開き、それから、小さく強張った喉を動かして深く頷いた。そっと触れた彼女の指先は氷のように冷え切っており、華奢な身体が小刻みに震えているのが伝わってくる。
僕は自分の衣服が汚れることなど微塵も気にせず、彼女の細い肩を抱きすくめるように支え、ゆっくりと一緒に立ち上がった。
だが、そんな張り詰めた不穏な空気を、一瞬で、誰よりも鮮やかに一蹴したのは――さっきまで理不尽に突き飛ばされ、声も出せなかったはずの、彼女自身だった。
彼女はゆっくりと、泥のついてしまったドレスの裾を愛おしむように優しく整えると、何事もなかったかのように、その場にいるすべての人々に向けて、深く、これ以上ないほど流麗で美しいお辞儀を披露したのだ。
「……皆様、お足元の悪い中、大変なお騒がせをいたしました。私の不調法を、どうかお許しくださいませ」
鈴を転がすような声は静かで、微かな震えすら混じっていない。
どれほど理不尽な状況に置かれ、世界から踏みつけられようとも、決して折れることのない気高き淑女の芯。泥に塗れてなお、王城の誰よりも圧倒的に気高く、神聖な輝きを放つその姿。
(――ああ、美しい……。なんて、狂おしいほどに気高い人だ……!)
その瞬間、僕の胸は痛いほどに締め付けられ、魂ごと彼女に屈服するような激しい陶酔感に満たされた。泥の中に咲いた一輪の薔薇。その圧倒的な美しさに、僕はただただ目を奪われ、彼女を一生をかけて崇拝し、独占したいという歪な衝動が脳髄を駆け巡った。
そのまま僕は、鋭い横目でこの大惨事の「原因」となった影を睨みつける。
重たいカーテンの影。そこにいたのは――思った通りの人物、彼女と全く同じ顔をした妹のエリシアだった。
エリシアは、自分が姉を完璧に嵌め落とした悦びに浸り、僕やキース、ノアの三人に完全に一挙手一投足を見られていることすら気づいていない。暗がりの執念深い瞳をらんらんと輝かせ、口元を醜く歪めて「クスクス……アハハ!」と声にならない狂った笑いを漏らし続けている。
そのあまりにも異様な姿に、もはや珍獣を通り越して、おぞましい怪物を見るような嫌悪が走る。僕の視線に釣られてエリシアを捉えたキースとノアの目にも、ふつふつと明確な怒りと蔑みの色が宿った。
二人は混乱する場を即座に収め、一刻も早く彼女をこの場から連れ出そうと動き始めた。
「レオン、この場に長居すると彼女の心も落ち着かない。外の空気を吸わせるために、すぐに僕の馬車を用意させる。……ここは任せて、一度彼女を連れ出せ」
キースが静かに、けれど極めて的確に僕を促し、外へと続く重厚な扉を指し示す。
「ああ。そうさせてもらうよ」
ノアがすかさず近くの給仕たちを鋭い声で呼び寄せ、割れた花瓶の破片を片付けさせ始めた。
「大至急、こちらを片付けてくれ。周囲の皆様のドレスが汚れては大変だ。……さあレオン、今のうちに!」
親友二人の完璧な連携によって、野次馬たちの視線は散らばった花瓶へと逸らされ、僕たちが退出するための動線が瞬時に作り上げられる。
「……さぁ、この場を離れましょう。静かで、空気の良い庭園があります」
「お、お待ちください! 小侯爵様、その娘は――!」
娘の失態を取り繕おうとしたのか、彼女の父親であるグレインフィール伯爵が浅ましくもまた何かを喚き散らそうとする。僕はその浅薄な顔面に、これまでにないほど冷徹で、殺意に満ちた軽蔑の視線を容赦なく突き刺した。
「……今は、理不尽な叱責よりも、彼女の休息が最優先でしょう。これ以上、私の前で醜態を晒さぬことです」
自分の口から出た声が、驚くほど低く、地を這うように響く。
僕の尋常ではない覇気と、背後に控える侯爵家の権威に血の気が引いたのだろう、彼女の両親はそれ以上、何も言葉を紡ぐことができずに蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
僕は彼女の細い腕を取り、優しくエスコートしながら、堂々と会場を後にした。
さっきまで悪趣味に覗き見していた貴族たちも、彼女のあまりに見事な引き際に気圧され、何事もなかったかのように元の社交へと戻っていく。残された伯爵夫妻だけが、自業自得の恐怖に怯えていた。
騒がしい会場を完全に離れ、王城の外庭へと続くひっそりとした長い回廊を進むと、夜のひんやりとした春の空気が、優しく僕たちの肌を撫でた。
その冷たい外気に触れた瞬間、僕の腕の中にいた彼女の肩が、限界を迎えたようにわずかに小さく震えた。
僕は歩きながら、彼女を思って仕立てた上質な上着をすぐに脱ぎ、彼女の華奢な背中へふわりと羽織らせる。
「いえ……! 私は大丈夫ですから、お気持ちだけで十分です。このような泥汚れがついてしまっては、貴方の上着が汚れてしまいますわ」
彼女はあわててコートを脱ぎ、僕に返そうと手を伸ばした。
けれど、僕は彼女のその白く小さな手をそっと掴み、拒む隙を与えないまま、大きな袖の中に彼女の腕を優しく通した。
「……酷く震えています。そんな濡れた格好のままでは、すぐに風邪をひいてしまいますよ」
「で、でも……貴方様に対して、あまりにも無礼に……」
まだ頑なに遠慮し、申し訳なさそうに身を縮こまらせる彼女に、僕はこれ以上ないほどの甘く極上の笑顔を送った。
「僕の服なんて、いくら汚れても構いません。それに、女の子が男の上着にすっぽり隠れている姿を見るのは、男の甲斐性というものです。――袖を通す方が、ずっと暖かいですよ?」
僕の上着を着た彼女は、体格差のせいで服の中で泳ぐようにブカブカになっていた。そのあまりの愛らしさに、胸の奥の独占欲が跳ね上がる。僕の少し強引な優しさに、彼女はついに観念したように大きな袖に手を収めた。
「そ、そういうものなのですか……っ? ありがとうございます……。お優しい方に助けていただけて、本当に……」
彼女は何度も、隠れるように頭を下げた。
けれど、僕のコートの襟元をぎゅっと握りしめる彼女の瞳は、シャンデリアの残光を受けて、かすかに潤んでいた。
必死に何度も何度も瞬きを繰り返し、涙がこぼれ落ちないように、泣いていないふりをしている。私は大丈夫、私は悪くない、そう自分自身に必死に言い聞かせるように、彼女は唇を噛み締めていた。
その健気で、あまりにも愛おしい強がりを見た瞬間――。
僕の胸の奥の「狂気」が、完全に目を覚ました。
守りたい。僕の手で、この最高に気高くて不器用なお姫様を、今すぐあの地獄の家族から引き剥がし、僕だけの檻に閉じ込めて一生をかけて愛し抜きたい。
「……アリア嬢」
僕は足を止め、彼女の手を包み込むように握り直した。
さあ、僕の最愛の婚約者。今ここで、君を縛るすべての呪いを解く、僕からの最高の誓いを捧げよう。




