砕かれた静寂、絶対の守護者
ノアに先導されながら、キースと並んで大舞踏会を歩く。僕は自分でも驚くほど、何度も無意識に上着の裾を正し、背筋の伸びを確かめていた。喉の奥がカラカラに渇き、胸の鼓動がうるさいほどに鳴り響いて落ち着かない。
「キース、僕に変なところはないか?」
「ないって! おいおい、いつでも平静を装っているお前が、そんなにガチガチに緊張するなんて珍しいな」
隣を歩くキースが、いつもの余裕のある穏やかな笑みを向けてくる。
「……分かってはいるんだけど、こればかりは脳の制御が効かないんだ」
僕の初々しいパニックをよそに、キースはなんだか我が事のように嬉しそうに目を細めている。
「よし、心の準備はいいな、レオン」
「ああ」
「やっとこれから、初めての正式なご対面ってわけだ」
父も母も、そして親友の二人までも、最近の僕の周りの人間はニヤニヤと笑いすぎじゃないかと思う。正直、気恥ずかしさで見ているこちらがいたたまれない。
「レオンが絶対に気に入ると思うんだよね、あの子――」
ノアが満面の笑みで答えを口にしかける。元々、ノアは嘘を隠し通せる器用なタイプではない。性格的にも真っ直ぐで、自分が素晴らしいと思ったものをすぐに他人に伝えたくなってしまう心地いい性質なのだ。そんなノアの言葉を、キースが慌てて手で制し、意味ありげな笑みを深めた。
「おいノア、ネタバレが過ぎるぞ。これから会ってからのお楽しみってやつにさせてやれよ」
「あ、それもそうか! 悪い悪い!」
二人が楽しそうにクスクスと笑い合う。僕は顔の火照りを感じつつも、親友たちからの温かい期待に背中を押され、胸の弾みを抑えきれずにいた。
――いよいよだ。僕の、たった一人の婚約者に、やっと。
そう心の底から覚悟を決め、彼女が静かに人混みを避けて休んでいる、会場脇の少し薄暗いテラス付近へと向かった。
開けた視界の先に、先ほど見た凛とした彼女の後ろ姿が見えた瞬間、一気に心臓の跳ね上がりが最高潮に達する。気づけば、また手が勝手に身なりを確認しようと動いていた。
いい加減、男らしく腹を括らなくてはとその手を無理やり止める。
彼女の姿から一瞬たりとも目を離せないまま、脳内で「最初にかけるべき完璧な挨拶の言葉」を必死に組み立てていた――まさに、その時だった。
――ばさり、と。不自然に重たい遮光カーテンが大きく揺れた。
次の瞬間、誰も予期しなかった影がカーテンの隙間から滑り込み、その獰猛な悪意の塊のような両手が、目の前にいた彼女の背中を、思い切り突き飛ばしたのだ。
チラリと見えた見覚えのある豪奢な袖口――エリシアだ。
「――っ!?」
叫ぶ暇すらなかった。
視界がスローモーションに切り替わる。突き飛ばされ、無防備に身体を浮かせた彼女を前に、僕の手は考えるよりも早く前方へと伸びていた。だが、届かない。
床へと倒れ込んでいく彼女が、驚愕に目を見開いて振り返る。その瞬間、初めて、彼女の深いエメラルドグリーンの瞳と僕の視線が、真っ直ぐに交差した。
その瞳は、これほどの理不尽に晒されながらも、涙に濡れることなく、どこまでも毅然と、気高く輝いていた。
直後、鈍い破壊音とともに巨大な装飾花瓶が砕け散り、彼女の可憐な身体が、冷たい大理石の床へと倒れ込んだ。
飛び散る水、泥、そして容赦なく彼女を汚していく花粉。無惨にドレスを汚された彼女の姿を見て、僕は伯爵家で彼女がどれほど凄惨に虐げられてきたのかを、目の前で骨の髄まで理解することとなった。
「――何をしているの、アリア!」
「まったく、なんてみっともない! 我が家の恥を社交界で晒す気か!」
すぐさま野次馬を押しのけて、金切り声を上げて駆け寄ってきたのは、あろうことか、彼女の実の両親であるグレインフィール伯爵夫妻だった。床に倒れ伏す我が娘を心配する素振りすらなく、その表情には剥き出しの苛立ちと、保身への怒りだけが満ちている。
(……やはり、あの村から父親の暴力を以て無理やり連れ戻したというのは事実だったんだ。この期に及んで、実の娘を『泥を塗る道具』としか思っていない……!)
その異常な光景に、僕の脳裏に激しい不協和音が鳴り響く。
周囲の事情を知らぬ貴族たちも、床に塗れる彼女を見て「無作法な娘」「グレインフィール家の恥晒し」と嘲笑し、ひそひそと容赦のない侮蔑の言葉を浴びせ始めた。
隣にいたキースもノアも、目の前で起きたあまりに理不尽で残酷な光景に、呆然と言葉を失って立ちすくんでいる。
「何が、起こっているんだ……?」
だが、周囲がたじろぎ、世界が彼女を嘲笑したその瞬間――僕の脳は逆に、沸騰するほどの怒りを抱えながらも、恐ろしいほどの冷徹さと明確な意志を取り戻していった。
僕の、たった一人の大切な女の子。
我がヴァルツァー家が、僕が、生涯をかけて世界で一番大切にするはずの魂の半身を、あんな下俗な有象無象どもが不当におとしめ、傷つけている。
激しい憤怒と、それを遥かに凌駕する「彼女を今すぐ僕の手で救い出す」という烈火のような衝動が、僕の五躯を支配した。
周りの目など、知ったことか。貴族の体裁など、どうでもいい。
僕は――気づけば、誰よりも早く彼女の元へと身体を弾ませ、水浸しの大理石の床へと、迷わず滑り込んでいた。
「怪我はないかい、僕の――」
その冷たい床の上で、僕は彼女の小さな身体を抱き寄せるために、力強く、けれど世界で最も壊れやすい宝物に触れるように、手を伸ばした。




