狂おしい焦燥、夜会への幕開け
こうして僕は、彼女と初めて相見える社交界デビューを心待ちに、自らの準備を進めることになった。
今までなら母や専属のコーディネーターに丸投げしていた衣装の選定も、今回ばかりは僕自身が驚くほど念入りに、細部までこだわり抜いた。ヴァルツァー侯爵邸は、いつになく華やかで、どこか浮き足立った空気に包まれていた。
「レオン、この上着の刺繍は少し控えめにした方がいいかしら? 本当に貴方の銀髪は、どんな色を合わせても綺麗に生えるわね」
「でも、王城の夜会の照明なら、このくらい煌びやかな方が絶対に映えるかしら……」
特設された大きな姿見の前で、母は仕立て屋が広げた極上の布地を何度も角度を変えて掲げ、光の反射を熱心に確かめている。その横では、王都で右に出る者はいないと名高い一等仕立て屋が、最近の流行を丁寧に説明してくれていた。
「現在の王宮では、装飾を盛りすぎず、仕立ての上質さそのもので魅せるのが主流でございます。小侯爵様のような若く聡明なご令息であれば、深みのある藍色のベルベットに、爽やかな銀糸の刺繍をあしらいますと、非常に高潔な印象になるかと」
「なるほど……。お母様、こちらの色味はどう思いますか?」
「ええ、とても素敵よ。貴方の澄んだ琥珀色の瞳とも、実によく調和しているわ」
僕は何度も、母や仕立て屋と熱心に相談を重ねながら、細かなボタンの装飾やカフスの位置をミリ単位で決めていった。普段はどんな時も冷静沈着なお母様が、今日はどこか少女のように心を躍らせている。
ふと鏡越しに視線を向けると、母の目元がわずかに潤んでいることに気づいた。
「……お母様? どうかなさいましたか?」
「ふふ、ごめんなさいね。あの小さくて、医学書ばかり読んでいたあなたが、もう正式な社交界デビューを迎えるなんて……そう思ったら、何だか感慨深くなってしまって」
そう言って、母は愛おしそうに優しく微笑んだ。
「そんな、大げさな……。僕ももう十九ですよ? デビューとしてはむしろ遅すぎたくらいです」
「そうね。でも、ようやく念願のアリア嬢に会えるのだもの。精一杯、素敵に着飾って彼女を驚かせてあげないとね」
口では落ち着いた風を装ってみたものの、僕にとっても今日の夜会は、これまでの人生のどんな儀式よりも特別で、心臓が痛いほどに気合が入っていた。
(――そうだ。初めて、彼女に会うんだ。絶対に、僕を良く思ってほしい)
夢にまで見た、唯一無二の理想の婚約者。
実際に僕と対面した時、「医学ばかりで退屈な男だ」なんてがっかりされたくはなかった。少しでも頼もしく、綺麗だと思ってほしい。好印象を持ってもらいたい。
その一心で、僕はここ数日間、貴族としての立ち居振る舞いや完璧な紳士のマナーの確認に、いつも以上に血を滲ませるような特訓を重ねていた。
『背筋は天から吊られているように伸ばし、視線は相手の目線より、ほんのわずかに下へ』
『歩幅は常に一定に。決して急がず、威風堂々と落ち着いて動きなさい』
頭では完璧に理解していても、いざ正装を纏って実践するとなると、これほどもどかしく難しいものか。
(でも、ノアが……彼女は戦場であっても、完璧で優雅な淑女のお辞儀を崩さない、気品溢れるご令嬢だと言っていた。僕が彼女の前で、無様な礼儀を欠くわけにはいかない)
準備に追われる日々は、期待と焦がれる気持ちの大きさゆえか、なぜか途方もなく長く、じれったいものに感じられた。
そして――ようやく迎えた、社交界デビューの当日。
王城の豪奢な大舞踏会に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず小さく息をのんだ。
高くそびえ立つ、美しい神話の描かれた天井。
そこを埋め尽くす無数のクリスタルシャンデリアが放つ、眩いばかりの光の洪水。
色とりどりの華やかなドレスや礼服に身を包んだ、王都中の貴族たちの洗練されたざわめき。
あまりに圧倒的な熱量とスケールに、普段は動じない僕の視線も、わずかに熱を帯びる。
最高級の香油で頭からつま先まで磨き上げられ、窮屈な正装に身を包んだ僕の横で、父も母も、いつもとは違う「最高位貴族」としての、人を寄せ付けないほどの威厳あるオーラを纏っていた。
会場に入るなり、僕たちヴァルツァー侯爵家を狙って次々と高位の貴族たちが波のように押し寄せ、僕は完璧な「神童の仮面」を張り付け、名前も知らない大人たちとひたすら愛想笑いを浮かべて挨拶を交わしていく。
だが、事務的に言葉を交わす間も、僕の視線は無意識に、獲物を探すように会場のあちこちを彷徨っていた。
(彼女は……アリア嬢は、本当にこの会場に来ているんだろうか……)
これほどの人混みだ、ただでさえ探す余裕などない。さらに、あの伯爵家に連れ戻された彼女が、本当に無事に出席できているのかという焦燥感が、じわじわと胸の奥を焦がし始めた、その時だった。
「――レオン、社交界デビュー、おめでとう」
聞き慣れた小気味いい声に振り返ると、そこには完璧な正装でスマートに決めたキースが立っていた。
「ありがとう、キース。もう来ていたんだね」
親友の顔を見て、張り詰めていた緊張が少しだけ和らぐ。軽く言葉を交わしたあと、キースは僕の様子が明らかにおかしいことに気づき、声を潜めて尋ねてきた。
「おいおい、せっかくの社交界デビューなのに、完全に心ここにあらずだな。……誰か探しているのか?」
「実は……ノアの言っていたアリア嬢が、この会場のどこかにいるはずなんだ」
「はぁ!? 彼女は辺境地にいるって言っていただろう? やっぱり、伯爵家のご令嬢とは違う人物だったんじゃ……」
「詳しい事情は後で話す。とにかく、早く彼女を見つけないと……伯爵家に何をされているか分からないんだ」
僕が切迫した声で答えると、キースは少し考えるように顎に手を当てたあと、すべてを察したように不敵な笑みを浮かべ、僕の父の前に一歩踏み出した。
「ヴァルツァー侯爵おじ様。一気にこれほどの人数と挨拶をされては、本日の主役であるレオンも顔を覚えきれないかと存じます。ここいらで一度、彼を解放して自由にしてはいかがでしょう? 若者には若者の、果たすべき重要な『社交』もあるようですし」
キースのあまりに機転の利いた完璧な提案に、僕たちの会話を最初から聞き耳を立てていたらしい父が、深く頷いてすぐに微笑んだ。
「ははは、そうだな。キース君の言う通りだ。レオン、待たせて悪かったね。もう我が家の挨拶回りは十分だ。……大切な相手に、ちゃんと顔を合わせておいで」
隣で母も、悪戯っぽく、けれどすべてを応援するように意味ありげに微笑む。
「今日の貴方は、いつもの何倍もうんと素敵よ。……さあ、早く貴方のお姫様を迎えに行ってちょうだいね、レオン」
「もっ……もう、二人とも、からかわないでください……!」
僕は耳元までカッと熱くなるのを感じながら、両親の愛あるからかいから逃げるように、弾かれたようにその場を後にした。
(――やっと、やっと彼女を探しに行ける!)
胸の中で、爆発しそうなほどの狂おしい期待と、張り裂けそうなほどの不安が激しく混ざり合う。
僕はキースに感謝の目配せを送りながら、広い場内へと歩き出した。絵姿にあったあの静かで気高い面影を、僕の魂の片割れを、この不穏な光の洪水の中から必死に追い求めながら――。




