奪われた聖女、昏い誓い
執務室の扉を開けると、父は医師として、そして一人の研究者として目を輝かせ、興奮気味に僕に迫ってきた。
「レオン、辺境の地からだ! 駐屯兵からではなく、ずっとあの診療所を任せていた老医師から直々に返事が来たぞ! 見ろ、彼女はまた、とんでもない論文を書いていた!」
「本当ですか!?」
「ああ、これを読んでみろ。現場の負傷兵に使われる薬剤に対し、これでもかと緻密な副作用の検証と、快方に向かうまでの四年間におよぶ臨床研究成果が、完璧な論理で提示されている。まさか、あんな最果ての辺境領に、これほどの瑞々しい知性が隠れていたとはな……!」
僕たちは父の手にある論文を貪るように見つめた。
彼女は、過去に詰め込まれたであろう教養だけに甘んじることなく、過酷な現場で医師として培った経験を貪欲に経過観察し、また新しい分野でその圧倒的な能力を開花させていたのだ。
「執筆者は……『リア』という名の平民の医師らしい。彼女の師である老医師が、弟子的才能を惜しんで我が家へ送りつけてきたのだ。『侯爵様が噂の聖女をお認めになるなら、いつでもこの優秀な弟子を侯爵直属の医療機関へ送り出す用意がある』と、手紙が添えられている」
「リア……」
その名を口に含んだ瞬間、胸の奥が甘く痺れた。アリア、だから『リア』と名乗っていたのか。
「素晴らしいですね。患者の呼吸や脈拍、細かな症状の変化まで克明に記録されている。ここまでの情報を泥塗れの戦場で盛り込めるなんて、彼女はきっと、患者からも深く信頼されている熱心な医師なのでしょうね」
「ああ。……彼女はどのような環境に置かれようとも、決して勉学を怠らず、命に真摯に向き合う本物の医者だ」
父のその惜しみない称賛が、僕はまるで自分のことのように誇らしく、嬉しかった。やはりアリア嬢は、ノアの言っていた通り、辺境の地で自らの才能を美しく開花させていたのだ。他人の空似などという生易しいものではない。これほどの至高の才能を持つ者が、世界にゴロゴロと転がっているはずがない。
父もようやく完全に確信し、アリア嬢と辺境地の女性医師が同一人物であることを認めた。
「準備ができ次第、すぐに彼女を保護するため、我が家に迎えようではないか」
「はいっ!」
眩い未来に胸を躍らせ、僕たちは急ぎ彼女の部屋を用意し、辺境の地へと馬車を走らせた。――しかし、僕たちが現地に赴いた時には、すべてが遅すぎたのだ。
「なっ――――一体、何があったんだ!?」
診療所に到着した僕たちの目に飛び込んできたのは、荒らされた村の惨状だった。数名の村人が殴打された後の痛々しい治療を受けながら、涙ながらに僕たちに語りかけた。
「リア先生が……人攫いに……っ」
「人攫い!? 彼女が攫われたというのか?」
不穏な静寂と悲しみに包まれた診療所の奥で、彼女の師である老医師は、血の混じった涙を流しながら僕たちに深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません、侯爵様……! 突然、彼女の父親と名乗る貴族が、大勢の私兵を連れて現れまして……。数人の村人が抵抗したのですが力及ばず、彼女を殴りつけ、無理やり連れ去っていってしまったのです……!」
「何、グレインフィール伯爵が自ら来たのか?」
「はい……。私は彼女から、全ての事情を伺っておりました。実の家族からすべての才能と手柄を奪われ、命からがらあの家を出てきたのだと……。私が、彼女の才能を惜しんで論文を発表してしまったために、こんなことに……! すべて私のせいです……っ!」
老医師の慟哭を聴きながら、僕の脳裏に鋭い疑問が突き刺さる。
彼女の論文は我がヴァルツァーが極秘裏に受け取ったものであり、世間には一切公表されていない。ならば一体どうやって、伯爵家は彼女の居場所をこれほど正確に特定できたのだ。
その疑問の答えは、荒らされた彼女の私室を見て、すぐに血の凍るような納得へと変わった。
「研究ノートも、本も……すべて根こそぎ奪われている……」
こんな底意地の悪い略奪を行うのは、これまで彼女の成果を貪り喰ってきたエリシア嬢、そしてあの家庭教師のグレイスしかいない。この混乱に乗じて彼女たちはまた、アリア嬢の血の滲むような臨床成果を、自分たちの手柄にするために奪い去っていったのだ。
(――ああ、僕の、せいだ……!)
腸が煮え返るような激しい怒りと同時に、目の前が暗転するほどの痛烈な後悔が僕を襲う。
あの日、僕がエリシアを軽蔑するあまり、彼女をお茶会の席に残したまま執務室へ向かってしまった。あの傲慢な伯爵令嬢が、礼儀知らずにも僕の後をつけ、執務室での会話を盗み聞きするなど、普通なら思いもしない。
けれど、相手は化け物のような強欲の一家なのだ。僕の詰めが、あまりにも甘すぎた。僕の不手際が、ようやく見つけた僕の半身を、再びあの暗い泥の中に引きずり落とす原因を作ってしまったのだ。きつく握りしめた拳から、血が滴るのを感じた。
「レオン……申し訳ない。私が慎重になりすぎたせいで、動くのが遅れた……」
父が僕の肩に手を置き、悔しさをにじませながら静かに告げた。
「彼女は今、間違いなく伯爵家に連れ戻され、囚われているはずだ。無理に私兵を突入させれば、彼女の身に危険が及ぶ。……近々催される王城の夜会で、私は必ず、姉妹二人を揃って参加させるよう、伯爵に公式な圧力をかけよう。そこで彼女と、しっかり話してくるんだ。お前が事実を確かめ、納得し次第、正式に我が家へ迎える顔合わせの機会をつくるとしよう」
「……お父様、……よろしく、お願いします」
声を絞り出す僕の胸の奥で、かつてないほど昏く、どす黒い執着の炎が静かに燃え上がっていた。
アリア嬢。僕の、期待の婚約者候補。
僕の油断のせいで、再び君を地獄に戻してしまった。弁解の余地もない。
待っていて。次の王城の夜会で、君を縛るすべての鎖を、その嘘塗れの家族ごと、僕が完膚なきまでに叩き潰してあげるから。
こうして僕たちは、すれ違う運命の悪戯に翻弄されながら、あの運命の社交界デビューの夜会まで、彼女との再会をじっと待つことになるのだった。




