狂信の誓い、早すぎた婚姻の約束
ヴァルツァー侯爵が率いる医師団の治療は、瞬く間に、そして確実に始まった。
「熱は確実に下がっています。今夜が山場でしょう、必ず持ち堪えさせてみせます」
「そちらの患者に水を。ゆっくり、一口ずつだ。慌てなくていい」
昼夜を問わず不眠不休で働く医師たち。その神業のような手際によって、一人、また一人と、死の淵にあった領民たちが奇跡的な回復を遂げていく。
「助かった……本当に、助かったんだ……!」
「ヴァルツァー侯爵様が来てくださらなければ、私たちは全滅していた……!」
あちこちの集落から上がる、領民たちの涙ながらの歓声を背に、ロベルトは震える拳を握りしめていた。数カ月前までの地獄が嘘のように、すっかり活気を取り戻していく我が領地。ロベルトは溢れる涙を隠そうともせず、アルベルトの前に進み出ると、これ以上ないほど深々と頭を下げた。
「信じられません……。あれほど絶望的だった状況を、これほど鮮やかに、完璧に救ってくださるとは。侯爵様、この御恩は、生涯を……いえ、我が一族の歴史を賭しても、必ずやお返しいたします」
健康を取り戻した最愛の妻マルティナと、笑顔を取り戻していく領民たち。
この胸を焦がすほどの圧倒的な感謝の念は、一体どれだけの対価を支払えば返しきれるだろうか。ロベルトの心は今や、狂おしいほどの忠誠心と恩返しへの執念で満たされていた。
「よいのです、伯爵。これは医者としての務めですから。頭を上げてください」
それでもなお、当然の事をしたまでだと高潔に微笑むアルベルト。その無欲で完璧な姿勢が、余計にロベルトの「何としてでもこの男に報いたい」という執念に油を注いだ。
やがて領内の危機が完全に去り、両夫妻は応接間でゆっくりとお茶を嗜むことができるほど、穏やかな時間を迎えていた。
ロベルトはすっかりアルベルトを神のように崇拝しており、この機を逃すまいと、彼に恩返しをするための「隙」を鋭く狙って、さりげなく探りを入れた。
「今回の件で、私は領主として己の未熟さを痛感いたしました。……ですが、ヴァルツァー侯爵様のような、すべてにおいて完璧なお方には、そのような悩みなど無縁なのでしょうな」
アルベルトは苦笑を漏らし、ふと視線を横にやった。そこには、ちょこちょこと歩く、三歳になったばかりの愛息が佇んでいる。
幼い息子はたどたどしい足取りで父親のもとへ駆け寄り、その服の裾を小さな手で握って抱っこをせがんだ。
「まさか。悩みがない人間など、この世にはおりませんよ」
「そうなのですか……? 我が国の医療を一手に任され、領地の発展も申し分ない侯爵様に、一体どのような悩みがあるというのです?」
アルベルトは愛おしそうに息子を抱き上げ、その綺麗なシルバーグレー(銀髪)の頭を撫でながら、ふと寂しげな吐息を漏らした。
「我が家は高位貴族でありながら、古くから医師の家系です。病と闘い、人々を救うと言えば聞こえはいいですが……貴方も知っての通り、常に感染のリスクと隣り合わせの我が家は、華やかな貴族社会において少々奇異の目で見られがちでしてね。……お恥ずかしい話、なかなか良縁に恵まれないのが実情なのです」
「そうなのですか……。では、奥様とはどうやってお知り合いに?」
ロベルトが視線を向けると、隣に座る侯爵夫人・セレナが優しく微笑み、アルベルトとの結婚までの経緯を説明してくれた。
「わたくしは元は子爵家の出なのですが、アルベルトとはまさに医療の現場で知り合いましたの。私の実家は酷い田舎で医療の発展が乏しかったので、私は領地を救うため必死に医学を勉強いたしました。ですが、わたくしの拙い腕ではもうお手上げという絶望的な状況の時に、彼と出会い、その知識と姿勢を見染められたのです。当時は身分違いの申し出に驚きましたが、今では医療を学んだことも、ヴァルツァー侯爵家に入ったことも、わたくしの生涯の誇りとなっております」
その言葉を聞いた瞬間、ロベルトの脳裏に激しい電撃が走った。
(――見つけたぞ)
雲の上の存在である侯爵家の、唯一の弱み。そして、求めている理想の嫁の条件。
付け入る、と言っては聞こえが悪いが、これこそが神が与えてくれた「最大の恩返しの好機」だと確信した。
侯爵夫人・セレナは元は子爵家。自分たちは伯爵家であり、身分としての格式は申し分ない。そして何より、セレナのように「医療の知識を身に付けた自慢の娘」を差し出せば、侯爵家は間違いなく喜んでくれるはずだ。
(今だ。この機を絶対に逃してなるものか……!)
ロベルトは隣に座るマルティナの、まだ微かに膨らんでいるだけのお腹にそっと手を添え、決意に満ちた熱い眼差しで言った。
「侯爵様。――もし、これから生まれてくる我が子が『娘』であったなら、ぜひ貴家のご子息の婚約者候補として、我が家から嫁がせてはいただけませんか?」
「伯爵、気持ちは嬉しいが……それはさすがに早急すぎる」
アルベルトが思わず目を見張る。
「まだ生まれてもいない、性別すら分からぬ子供をですか……?」
セレナも驚きに声を上げたが、ロベルトの狂信的な言葉は止まらなかった。
「我がグレインフィールを救っていただいた大恩に比べれば、これでも足りないほどです! それに、我が家にとってもヴァルツァー侯爵家との縁組みは身に余る名誉。……ぜひ、私に恩を返させてください。必ずや、侯爵夫人のように聡明で、医療の知識を完璧に備えた娘に育て上げてみせます!」
「私からも、ぜひお願いいたしますわ。侯爵家に相応しい、非の打ち所のない『自慢の才女』に育て上げて、必ずやお送りいたします」
マルティナも夫の意図を完全に察し、満面の笑みで激しく追従した。
そこまで必死に懇願されては、アルベルトも無下に断ることはできなかった。何より、目の前の若い夫婦の眼差しには、一種の狂気にも似た、純粋すぎる熱意と感謝が宿っている。
アルベルトは一拍置き、抱きかかえた息子の琥珀色の瞳を見つめた後、困惑を隠すように柔らかく微笑んだ。
「……身に余る熱い申し出、感謝いたします。では、娘さんが無事にお生まれになった頃、改めて正式に、前向きなお話を勧めましょう」
「おお……! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
ロベルトは再び感極まって頭を下げた。
こうして、まだ見ぬ娘たちの運命を決定づける、早すぎる婚姻の约束が両家の間で交わされたのだった。




