絶望の雨、そして神の手が舞い降りた
このたびの「双子の令嬢のどちらかを」という因縁めいた縁談の起源は、私たちが生まれるより遥か前――両親であるロベルトとマルティナが結婚したばかりの、若かりし頃にまで遡る。
その年、グレインフィール伯爵領には、まるで領民の命を吸い尽くす呪いのように、冷たい冷雨が降り続いていた。
「旦那様、また新たな発症者が……! 今度は南の集落です。本日だけで、また一人、息を引き取りました」
悲痛な使用人の報告に、当時まだ若かった父・ロベルトは、血が滲むほど机に拳を叩きつけた。
応接間の隅の寝台には、身重の母・マルティナが青ざめた顔で横たわっている。結婚してまだ半年。その微かに膨らんだ腹部を、ロベルトは恐怖に血の気の引いた顔で見つめるしかなかった。
「くそっ……! 感染者の隔離も、手元にある限られた薬の配分も、できる限りの手は尽くしている! これ以上、私にどうしろと言うんだ……!」
「あなた……、お腹の子が、苦しいわ……っ」
「私どうなるの?」
不安に怯え、涙を流す新妻の声に、ロベルトは取り乱した顔を必死に繕い、彼女の手を壊れそうなほど強く握りしめた。
「大丈夫だ、マルティナ。君と……お腹の中の我が子は、私がこの命に代えても守る。だから心配いらない」
だが、その言葉を一番信じられていないのは、誰あろうロベルト自身だった。
正体不明の悪性伝染病は、瞬く間に領地を侵食していった。領民はバタバタと倒れ、蓄えのあった医療物資も底を突きかけている。
必死の思いで周囲の懇意にしていた貴族たちへ必死の支援要請を送ったが、返ってきたのは、感染を恐れた冷酷な門前払いと、音信不通の返答ばかりだった。
――誰もがこの領地を見捨て、耳を塞ぎ、グレインフィールの滅亡を待った。
完全に孤立無援。打つ手はもう、何一つ残されていない。
強気な言葉とは裏腹に、ロベルトの背中は冷や汗で濡れていた。このままでは愛する妻も、まだ見ぬ我が子も、そして先祖代々受け継いできたこの領地も、すべてが病魔に呑まれて全滅する。
誰もが絶望の淵へと引きずり込まれ、死の匂いが部屋に充満した、まさにその時だった。
「旦那様っ! ヴァルツァー侯爵家からの使者が……侯爵様ご本人が、我が領地に向かっているとのことです!!」
息を切らせ、泥だらけになった従僕の叫びに、ロベルトは我が耳を疑った。
「ヴァルツァー侯爵……だと……?」
隣接する領地を治める、由緒正しき絶対的名門。そして何より、王国の医療を統括する「医師の家系」として知られる、雲の上の大貴族だ。
これまで一切の接点も交流もなかった超大物の登場に、ロベルトが混乱のまま玄関へと駆けつけると、そこには防護外套を身に纏い、毅然とした佇まいで立つアルベルト・フォン・ヴァルツァー侯爵と、その妻・セレナの姿があった。
「初めまして、グレインフィール伯爵。突然の不躾な訪問を許してほしい」
侯爵夫妻は、まだ幼い息子の手を引き、その後ろに総勢二十名ほどの一団を引き連れていた。その誰もが、見たこともない先進的な医療器具や、山のような防備物資を抱えている。
「貴領が、王都でも例のない深刻な未知の感染症に苦しんでいると聞き及んだ。――我々に、その絶望を掬い上げる手伝いをさせてはいただけないだろうか」
その言葉が、極限状態だったロベルトの心を完全に決壊させた。
誰もが恐れて逃げ出す死の地獄に、自ら最高峰の医療を持って飛び込んできてくれた救世主。抱えきれない恐怖と安堵が涙となって溢れ出し、ロベルトは伯爵としてのプライドもすべて投げ捨てて、その場に膝を突き、床に激しく頭を擦りつけた。
「どうか……どうかお願いです……! 妻を、お腹の我が子を……このグレインフィールを、お救いください……!」
涙を流し、見窄らしく床に額を押し付けるロベルトの肩に、そっと柔らかな、けれど温かい手が添えられた。見上げると、アルベルトが穏やかで、しかし確固たる神の如き瞳で微笑んでいた。
「頭を上げてください、伯爵。事情はすべて察しています。――私は貴族である前に、医者だ。眼の前で苦しむ命を見過ごすことなど、我がヴァルツァーの誇りが許さない」
アルベルトは、背後に控える一団を振り返り、力強く告げた。
「我がヴァルツァー侯爵家が誇る、精鋭医師団を連れてきました。特効薬になり得る最新の薬も、物資も、人手も、惜しむつもりはありません。総力を挙げて、最善を尽くしましょう」
「ああ……、あ、ありがとう、ございます……っ! ありがとうございます……っ!」
ロベルトは子供のように声を上げて泣き崩れた。
張り詰めていた糸が切れ、言葉にならない感謝の言葉が何度も、何度も口から溢れる。
その光景を優しく見守った後、アルベルトはすぐさま鋭い名医の眼差しに戻り、「さあ、診察を始めるぞ!」と医師団に指示を出して、瞬く間に治療へと取り掛かっていった。
この日、死に瀕していたグレインフィール領は完全に救われた。
そしてロベルトの心には、ヴァルツァー侯爵家に対する、一生をかけても、我が身をどれだけ犠牲にしても返しきれないほどの、狂信的とも言える絶対的な忠誠と恩義が、呪いのように深く刻み込まれたのだった。




