狂い始める切り札、自壊の道と仮面の告白
この場の空気は、エリシアが提出した論文一つで一度は快方に向かったかのように見えた。
アルベルト様はまじまじと論文を読みだし、「これは画期的な発見ですね。なるほど、常備薬を置くことでいつでも病に備えることができるわけですか」と深い興味を示していた。
「レオンも読んでみるか?」
「はい、ぜひ」
そう言われ、レオンハルト様もその論文を手にし、静かに読み進めた。
「相変わらず素晴らしい着眼点ですね。貴方の才能は他に類をみません」
「まぁ、レオンハルト様にそう言って頂けて、わたくし頑張った甲斐がありましたわ」
期待通りに目を輝かせるエリシア。だが、彼の琥珀色の瞳はどこか冷たく、全く笑っていなかった。
「ですが……市井で生活したこともない貴方が、こんな突拍子もない工夫を思いつくなんて。才能で片付けるには、あまりにも出来過ぎていますね」
その静かな言葉は、隠しきれない鋭い違和感を含んでいた。エリシアの顔に、一瞬にして明確な緊張が走る。
それまでの自慢げな態度をピキリと膠着させ、あからさまに動揺し始めた。当然だ。平民の暮らしや泥に塗れた医療の現場など塵ほども知らない彼女が書くには、あまりにもその論文は、困窮する民の生きた現実を熟知しすぎた内容だった。
「わ、わたくしだって、市井に降りることくらいありますのよ……」
エリシアの口から飛び出したのは、あまりにも拙く、その場しのぎな言い訳だった。高位貴族の令嬢が軽々しく市井に降りるなどあり得ない。その一言で、せっかく取り繕われていた応接間の雰囲気は、再び一気に不穏なものへと引き戻されていく。
何より、彼――レオンハルト様は、さっきから、身を乗り出して浅ましい自己アピールを続けていたエリシアのことなど、完全にそっちのけだったのだ。
この部屋に入室された時から、彼は一瞬たりともエリシアを見ることなく、ずっと、ずっと、机の端で必死に気配を消して俯く私のことを、射抜くような、焦れったいほどの強い眼差しで見つめ続けている。その熱い視線が、痛いほどに私の肌を灼いていた。
あのプロポーズの夜、彼の美しい瞳に自分だけが映っていることに、この上ない歓喜を覚えた記憶が鮮烈によみがえる。……それが今では、これ以上ない惨めさと悲しさとなって胸を突き刺し、声を上げて泣き出してしまいそうだった。
(お願いだから……もう私を見ないで……!)
叫び出しそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死に堪える。
彼は、私の論文を盗み、「才女」として社交界で輝くエリシアを求めて、今日ここへ来たのだ。あの夜、私が見せた医学の知識は、彼にとっては「婚約者エリシアの功績」としての裏付けでしかなかったに違いない。
もう、何でもいい。どんな形でもいいから、さっさとこの縁談をエリシアのもので確定させて。そして、私をこの息もできない視線の檻から解放して、お屋敷の薄暗い底へと帰らせてほしい。
目の前の残酷な現実をいつまでも受け入れられず、未練がましく傷ついている自分の無様な泣き顔だけは、世界で一番愛した彼にだけは、絶対に、絶対に見られたくなかった。
「ふむ。エリシア嬢はこの縁談に非常に前向きなようだね。私は若者本人の意思を何よりも尊重したいと思っている。――アリア嬢、貴女はどう思われるかね?」
そんな時、ようやく侯爵閣下より、私への発言権が与えられた。
張り詰めていた空気が一気に私へと集中する。私はこの瞬間のために、俯きながら覚悟を決めていた。
この縁談をエリシアのものにするために。ここで社交界での自分の「悪評」と「教養のなさ」をあえて自ら認め、この恋に永遠の別れを告げるための、最悪の切り札にしようと目論んだのだ。
(この苦しい気持ちに、早く区切りをつけたい……!)
横に座る両親の、鋭く刺すような「余計なことを言うな」という脅しの視線が私を射抜いていた。けれど私はスッと背筋を伸ばし、心の雑音をすべて払い除けて、これ以上ないほど凛とした姿勢で顔を上げた。
「……初めまして、侯爵様、ご婦人、そして小侯爵様。アリア・グレインフィールと申します。まず、長き間お顔を出せずに今日に至ったことをお詫び申し上げます」
私は静かに、淑女としての完璧な規律を重んじた声を響かせた。
その透き通った一言で、場のすべての視線が私に集まる。私は一度、侯爵ご夫妻へ向けて深く一礼してから、一言一言、丁寧に言葉を選んで紡ぎ出した。
「私は……正直に申し上げますと、体も丈夫ではなく、先日の社交界デビューでも、弁えのない大きな失敗をいたしました」
両親がぴくりと肩を揺らして過剰に反応する。その話題は、レオンハルト様には一度現場を見られているとはいえ、侯爵夫妻の耳にだけは入れたくなかったのだろう。だが、私にはこれ以上の断る理由もない。世間ではすべて「姉のアリアがやった悪行」にされているのだ。エリシアが私の名を騙って社交界で積み上げてきた、胃に穴が空くほど絶望的な不作法の数々。それを、今ここで私の汚点として、自ら喜んで引き受けてみせる。
「その結果、未だ世間からの私に対する評判も、決して良いものではございません。お恥ずかしながら、ヴァルツァー侯爵家という栄えあるお家柄に並ぶには、あまりにも不徳で、教養の欠けた身でございます」
あえて視線を落とし、悲痛な風を装って続ける。胸の奥が、千切れそうなほど激しく痛んだ。
「それに比べ、妹のエリシアは大変明るく、華やかで、社交界でも多くの方に愛される類稀なる存在です。……我がグレインフィール家から、侯爵家の次期夫人という重責を担う婚約者として相応しいのは、私ではなく、妹のエリシアの方だと、私は考えております」
嘘を並べる口元が、小刻みに震えそうになる。
けれど、それ以上に――この嘘ですべてを終わらせ、彼を諦め、この歪んだ状況から解放されたいという気持ちが勝っていた。彼が恋した「グレインフィールの才女」の席を、本来の持ち主へ返すだけのこと。
「ですから、どうか……私ではなく、妹のエリシアをご検討くださいますよう、お願い申し上げます」
私は、深く、深く頭を下げた。
これ以上ない完璧な辞退の口上に、エリシアは「当然よ」と言わんばかりに満足げに鼻を鳴らし、両親もまた「よくやった」とばかりに納得の表情を浮かべていた。
これで、すべてが終わる。私の淡い恋も、お伽話のような夜も、引き出しの奥に隠したあの方の上着の温もりも。
すべてを泥の中に埋めて、私は静かに目を閉じた――。




