移る戦場、侯爵邸の花嫁修業
「無礼をお許しください。社交界で悪評が付きまとう私のような不徳な身は、次期侯爵夫人という栄えあるお家柄にはあまりにも分不相応です。どうか、妹のエリシアをご検討ください」
深く頭を下げる私の謝罪に、ヴァルツァー侯爵夫妻は驚いたように顔を見合わせた。
応接間の空気は、完全にエリシアを次期侯爵夫人として迎える流れへと運んでいる。俯いたまま、私は心の中で密かにこの恋に区切りをつけていた。これで私は正式に身を引き、あの月夜の美しい思い出だけを胸に、屋敷の奥で静かに生きていけるはずだ。
「なるほど……。では、当事者であるレオンは、どう思うかね?」
アルベルト様が、息子へ意見を求めた。その瞬間、私の淡い目論見は跡形もなく吹き飛ばされることになる。
「それでは、恐れながら……」
レオンハルト様の所作は、絵画のように美しく、非の打ち所がないほど完璧な礼儀に満ちていた。
「私は本日、アリア嬢とはほぼ初めてお会いいたしました。……正直に申し上げますと、今この場で、どちらが我が家の婚約者に相応しいかを決めるのは、あまりにも早計かと存じます」
その一言に、隣で勝ち誇っていたエリシアが、きょとんと大きな目を瞬かせた。両親の表情もわずかに強張る。
「人の真の姿というものは、同じ時間を共有し、深く関わってみなければ分かり得ません。ましてや、社交界での一時的な評判や、真偽の定かではない『噂』だけで、伴侶を選ぶべきではないと私は考えます」
レオンハルト様の声はどこまでも穏やかで、心地よく響く。けれど、その眼差しには、すべてを見透かしているかのような恐ろしいほどの芯があった。
やはり、彼にはすべてバレているのだ。あの夜会以降、エリシアが私の名を騙って悪評を流していたことも、そして先ほど提出された論文の、真の制作者が誰であるかも、彼はその所在を最初から完全に掴んでいる。その上での、静かなる宣戦布告だった。
「ですから――お互いの本質を知るための、相応の機会をいただけないでしょうか」
応接間が、再びシンと静まり返る。
ヴァルツァー侯爵は腕を組み、息子の意図を測るように少し考え込んでから、にやりと不敵に笑った。
「……なるほどな」
さすがは名門の主、息子の「本物の才女を炙り出し、偽物の化けの皮を剥ぎ取る」という真意を瞬時に理解したのだろう。アルベルト様は、私とエリシアを順に鋭い目で見据えた。
「では、こうしてはどうだ。しばらくの間、二人を我が侯爵家で預かろう。知っての通り、我が家は医療と福祉、領民の健康維持に全力を注いでいる。口先だけの教養や強弁だけでは、真の器量は分からないはずだ。我が家での生活を共にしながら、二人の人となりを見極めさせてもらう。……花嫁修業と題すれば、世間への聞こえも良かろう」
「なっ……!?」
エリシアが、驚愕に目を見開いた。
完璧なマナーも、高度な医療知識も持ち合わせていないエリシアにとって、医師の本場であり最高峰の社交の場である侯爵家へ放り込まれるなど、自ら処刑台に登るようなものだ。しかし、この場で「嫌です」などと言えば、それこそ婚約の破談を意味する。エリシアは青ざめ、引きつった顔でどうにか言葉を絞り出した。
「も、もちろんですわ……っ! 喜んでお引き受けいたします」
「まあ! それは大変素晴らしいご提案ですわ、侯爵閣下」
母が、満面の笑みで即座に頷いた。
「最高位の侯爵家で過ごすという、これ以上ない貴重な学びの機会をいただけるのですもの」
父も、揉み手をして笑顔で追従する。
「左様でございますな! ヴァルツァー家の高度な薫陶を受けられるなど、我が家にとってこれほどの光栄はございません! エリシア、今度こそお前の才能を忌憚なく発揮するときだぞ」
「ご、ご期待に添えるよう頑張りますわ!」
エリシアは冷や汗をかきながらも、この婚約を何としてでも確定させるため、もう引き下がるわけにはいかなかった。
私自身もまた、あまりに予想外すぎる展開に、驚きのあまり言葉を失っていた。ここで拒絶してしまえば、伯爵家だけでなく侯爵家にまで不敬を働くことになる。最高位の貴族を前にそんな致命的な失態を犯すわけにはいかない。
「つ、謹んでお受けいたします。未熟な身ではございますが、どうぞよろしくお願いいたします……」
私は消え入りそうな声で、完璧な一礼を返すしかなかった。
一体、彼は何を考えているのだろう――。
恐る恐るレオンハルト様に視線を向けると、彼は私の困惑を見越していたかのように、月夜の晩と同じ、あの蕩けるように甘く、すべてを受け入れるような深い微笑みを私に真っ直ぐに向けていた。
(……っ!)
心臓が痛いほど跳ね上がり、私は慌てて視線を逸らした。
視線の先では、完全に青ざめたエリシアが、途方もない絶望と焦燥に顔を歪めている。ドレスの上からでも、彼女の指先が膝の上で真っ白になるほどぎゅっと握りしめられているのが見えた。自分の実力が通用しない世界へ連れて行かれる恐怖に、彼女は戦慄しているのだ。
「よし、決まりだな」
アルベルト様の一声で、すべての運命が定まった。
こうして私たちは――お互いに全く異なる目的を胸に秘め、ヴァルツァー侯爵家という新たなフィールドへと足を踏み入れることになる。
エリシアにとっては、自らの嘘を必死に隠し通し、何としてでも婚約を確定させるための、薄氷を履むような戦い。
私にとっては、彼が求める「才女」の座を完全にエリシアへ引き渡し、この苦しい初恋を綺麗に終わらせるための、最後のみっともない猶予。
花嫁修業という名の、私たちの真の価値を測る、新たな試練の幕が上がろうとしていた。




