割れた仮面、冷徹なる円卓の不協和音
応接間には、私の血の凍るような心情とは裏腹に、大人の社交らしい穏やかで形式的な空気が流れていた。
まずは儀礼的な挨拶と、隣接する領地の話題。
父とヴァルツァー侯爵・アルベルト様が向かい合い、最近の農作物の収穫量や税の調整について、さも親密そうに語り合っている。
「今年は天候にも恵まれまして、我が領の薬草園も豊作でございますな」
「それは何よりだ。伯爵領の管理が行き届いていることは、我が方にもかねてより聞こえておりますよ」
聞こえてくる男たちの声を、私は遠い世界の出来事のように聞いていた。
顔を上げることなんて、絶対にできない。隣に座るエリシアは、完全に目の前の美しい青年――小侯爵であるレオンハルト様に見惚れて、うっとりと熱い視線を注いでいる。
私はといえば、彼と視線が交差することの恐怖に耐えかね、ただただ、当主たちの話に耳を傾け、微笑んだふりをしていた。目の前に差し出された極上の紅茶も、色鮮やかなお菓子も、喉が完全に閉じてしまって全く受け付けない。
(……っ、私、今ちゃんと笑えているかしら……)
じわじわと、視界の端が熱くなっていく。
私は、いつまでも視線を落としたまま、必死に自分の頭を殴りつけるようにして、言い聞かせていた。
(そうよ……最初から、期待なんてしてはいけなかったの。私は日陰の、ただの出来損ないの姉。こんな眩しい高貴な方には、最初から相応しくなかったのよ。それなのに、あのたった一晩の甘い言葉を真に受けて、三ヶ月も独りで舞い上がっていたなんて……なんて惨めで、愚かなのかしら)
最初から分かっていたはずの政略結婚の現実。それなのに、胸の奥が、物理的に抉られたかのようにひどく、ひどく痛んだ。
これ以上何も考えないように、静かに心を殺していく。
これまでの努力を奪われ、家族からの冷遇を受けてきた地獄のような日々が、走馬灯のように脳裏をよみがえっては消えていく。
今、ほんの少しでも気を抜いて、あの優しいゴールデンアンバーの瞳と目が合ってしまったら――その瞬間に、堪え続けている涙が溢れて、この喜ばしい席を台無しにしてしまう。
だから私はいつも通り、感情を失った人形のように従順に、無難に、ただ気配を消して、この地獄のような時間が一秒でも早く過ぎ去ることだけを神に願っていた。
お互いに当たり障りのない言葉を交わしたあと、話題は自然と――本題である婚約話へと移っていった。
「さて……今回の、我がヴァルツァー家とグレインフィール家との縁談ですが、まずはお二人の意見を伺いたい」
ヴァルツァー侯爵・アルベルト様の重厚な言葉に、母・マルティナが、待っていましたとばかりに贅沢な扇子を広げて微笑んだ。
「ええ。ヴァルツァー侯爵家という偉大な家柄のお力になれるよう、娘たちには幼少期より、それは厳しい教育を施してまいりましたのよ。とくに、こちらの妹のエリシアは、我が領の薬草事業を生み出したまさに『グレインフィール家の才女』と称されるに相応しい成長を遂げました」
「まあ、そうなのですか」
ヴァルツァー侯爵夫人・セレナ様が、品定めをするような、けれど興味深そうな目でエリシアを見る。
「はい。社交界でも誰とでもすぐに打ち解け、その場をパッと明るくできる子でして。まさに、次期侯爵夫人という貴族の奥方に相応しい器量だと親馬鹿ながら感じておりますのよ」
「それは頼もしいですね。我が家は医療も大事ですが、貴族としての社交も必要ですから」
そうして両夫人が伝統的な最高位貴族の言葉を交わしている最中、耳を疑うような声が響いた。エリシアが割って入るように、不躾に口を挟んだのだ。
「ええ、その通りですわ、お義母様!」
(お義母様……!? まだ正式な婚約も結ばれていない段階で、最高位の侯爵夫人を相手に、なんて無作法な……!)
その瞬間、応接間の空気が一瞬で凍りついたのを、私は肌で感じた。
セレナ様の完璧に整えられた美しい眉が、不快感にピクリと跳ね上がる。王都の一流教師たちから叩き込まれた社交界のマナー知識があれば、これが「極刑に値するほどの致命的な非礼」であることは一目で分かった。
しかし、追い打ちをかけるようにガシャリ、と、静まり返った室内に不躾な金属音が鋭く響き渡る。
いきなり声を挟んだエリシアが、興奮のあまり、ソーサーにカップを戻す所作を誤り、派手な音を立ててしまったのだ。
(これ……本当に、本当に大丈夫なのかしら……!?)
私一人だけが恐怖で背筋を凍らせる中、あまりに社交マナーに疎い我が家の両親は、その決定的な事態にさえ全く気づいていなかった。それどころか、エリシアが臆せず発言し、すでに侯爵夫妻の心を掴んでいるのだと都合よく勘違いし、浅ましく表情を高揚させている。
「まぁ、エリシアとはそのように呼び合える仲なのですね。嬉しいですわ」
「ハハッ、お前の努力が実を結んでいたのだな。私もいつでもこの子を、嫁に出す準備をしなくては」
両親の脳天気な追従に、侯爵夫妻の瞳の奥に冷徹な光が過る。だが、そこは百戦錬磨の最高位貴族。アルベルト様もセレナ様も、大人の寛大さと余裕の微笑みを完璧に貼り付け、この世にも恐ろしい不調法を笑顔のまま優雅に取り繕ってみせた。
「ふふ、元気があって大変微笑ましいことですわね。……ねえ、アルベルト?」
「ああ、本当に」
社交を壊さないための、洗練された大人の対応。
しかし、その寛大な態度を「自分が絶賛されている」と盛大に勘違いしたエリシアは、制止する者もいないため、何の許可もなくさらに嬉々として喋り続けた。
「わたくし、先日の舞踏会でも、たくさんの一流の方々とお話しいたしましたの! 皆さま、エリシア様とのお話はとっても楽しい、素晴らしい才女だと仰ってくださいましたわ。それに、レオンハルト様に見初めていただけるよう、日々のお勉強だってちゃんと行ってきましたの」
まともな貴族なら顔を顰めるほどの自己顕示。そしてエリシアは、これこそが自分の決定的な切り札だと言わんばかりに、懐から一束の紙を取り出し、机の上に恭しく差し出した。
「まだ未完成ではありますが、市井でも対応可能な予防方法と安価な薬の開発についてまとめたものですわ。この論文が完成すれば、グレインフィールは薬草の産地として更なる発展を遂げ、ひいては侯爵様のお力になれるに違いありません」
その紙面が視界に入った瞬間、私の心臓がドクリと跳ね上がった。
それは、私が辺境の地で、夜な夜な指先を黒く染めながら書き殴っていた、まだ未完成の病理論文だった。あの子は、また私の努力を盗み、自分の手柄として大貴族の前にひけらかしたのだ。
ヴァルツァー侯爵家はその書きかけの論文を手に取り、一通り目を配った。
「これはまた素晴らしい着目点ですね。完成が待ち遠しいものです」
「さすが社交界で才女と名高いエリシア嬢。今後のご活躍が期待できそうですね」
溢れんばかりの不作法を、この見事な「論文の功績」という虚飾で塗り潰し、侯爵夫妻は再び朗らかに賞賛の言葉を口にした。
エリシアは鼻を高々とさせ、この世の春を謳歌するような自慢げな笑みを浮かべている。
間違いなく、完璧な好感触。
流れはもう、完全にエリシアが婚約者となる方向で決定づけられていた。
これでいい。私がわざわざ泥を被って自分を貶めずとも、このまま縁談は本決まりになる。私の初恋の人は、名実ともに妹の夫になるのだ。
(これで、すべてが終わる……。良かった、これで、いいのよね……)
そう自分に言い聞かせるたびに、胸が引き裂かれ、血が流れるように痛んだ。
私は必死に、必死に心を殺した。あの方がエリシアの婚約者になるという残酷な現実を受け入れるために、頭の芯を冷酷な麻痺で満たしていく。
溢れ出しそうになる悲痛な叫びを、お腹の底へと深く、深く押し込めて、私はただ、感情を失った静かな人形になり果てていた。




