砕け散った月光、絶望の円卓
――そして、あの運命の時が来た。
ついに、最高位貴族であるヴァルツァー侯爵家との初顔合わせの日がやってきた。
私はあの夜会以来、檻のような屋敷に再び閉じ込められ、ただあの方への恋心だけを胸に自分を磨き続けてきた。そして今日、久しぶりに家族と共に、侯爵家へと向かう馬車へと乗り込んだのだ。
「全く、お前を連れて、侯爵閣下の元へ赴かねばならんとは……。頼むから席では一言も喋らず、死んだように大人しくしていてくれよ」
「いいこと、アリア。貴方は書類上、双子の姉だから体裁のために籍を置かれているだけの『名目上の婚約者候補』に過ぎないの。この輝かしい縁談は、すべてエリシアのものよ。身の程を弁えて、大人しくじっとしていることね」
「……はい、伯爵様、夫人」
久しぶりにまともに顔を合わせたというのに、両親の口から出るのは相変わらず私への容赦のない嫌悪と侮蔑だけだった。どれだけエリシアが社交界で私の名を騙って悪行を広め、マナーの先生の胃に穴を空けるほどの失態を私に擦り付けようとも、盲目的な親たちがその真実に耳を傾けることはない。私はただ、この茶番が何事もなく終わり、静かに婚約を辞退できることだけを願って頭を下げ続けた。
我が領地と侯爵領は隣接しているため、馬車に揺られる時間はそれほど長くはなかった。
というよりも、重厚な侯爵家の鉄製の門扉をくぐってから、本邸へと続く並木道を走っている時間の方が、ひどく長く感じられた。
王城にすら引けを取らないほど広大な敷地に、完璧に手入れされた品の良い広大な庭園。そして、歴史の重みを感じさせる豪奢な大邸宅。
一歩足を踏み入れれば、鏡のように磨き上げられた大理石の床や、国宝級の調度品の数々が並んでおり、エリシアは一瞬にして品性のないおのぼりさんのように目を輝かせた。
「お父様、お母様、見て! すごいわ、なんて素晴らしいお屋敷なのかしら……!」
「ああ、私たちも久しぶりに訪れたが、いつ見ても圧倒されるな。これほどの権勢、さすがはヴァルツァー家だ」
エリシアは勝ち誇ったように胸を張り、私をこれ見よがしに振り返った。
「私がこの家の侯爵夫人になったら、この最高のお屋敷が私のものになるのね。お姉様は、精々この私の姿を指をくわえて見ておきなさいな!」
エリシアは私を完全に、敗北した哀れな引き立て役として見見下し、激しく睨みつけてくる。
私はただ、その幼稚な挑発を受け流し、穏やかに微笑み返した。
(……まるで、あの夜の再来ね。またエリシアの素行の悪さが露見して、この縁談が破談になったら、伯爵家に戻った後何が起こるか分からないわ……。でも今日は両親も一緒にいるのだし、大丈夫よね?)
私はただ、妹の不調法でこの国を揺るがす医師の家系たる侯爵家を怒らせぬよう、心の中で必死に祈っていた。
案内された厳かな応接間。中央に置かれた長いマホガニーの机に、私たちは横一列に座った。本来、姉である私が上座に座るべきなのだが、当然のようにその席はエリシアに牛耳られ、私は部屋の隅の最も下座の席へと追いやられた。
(それにしても、噂に聞くヴァルツァー小侯爵様は、侯爵閣下に勝るとも劣らない最高峰の医療技術と名声をお持ちだというけれど……一体、どれほど歳の離れた方なのだろう。貴族社会の政略結婚だもの、十歳や二十歳上の年の差なんて珍しくもないわね。さて、どれほどの堅物な人物が現れるのやら……)
この最高位の婚約は、妹のものだ。
自分は何が起こっても静かに辞退し、家を出て、あの月夜の紳士に相応しい女性になる道を選ぶ。両親も、エリシアも、世界も、それを望んでいる。
――それでいい。私は、あの人と生きられるなら、他には何も要らない。あの方の上着の温もりさえあれば、どんな茨の道でも歩いていける。
心から、そう思っていた。けど、私のたった一つの願いは、この時をもって終わりを告げた。
やがて、重厚な応接間の扉が、静かに開かれる。
「アルベルト様、ご無沙汰しております。本日はお招きいただき、光栄の至りに存じます」
父が慌てて立ち上がり、揉み手をして卑屈な挨拶の声を上げる。
そして、一歩、また一歩。
厳格な雰囲気を纏う侯爵夫妻が部屋に入り、そのすぐ後ろから、付き従うように入ってきた一人の青年の姿が視界に入った、まさにその瞬間――。
私の世界は、ガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「――っ……!?」
心臓が、恐怖と衝撃で凍りつく。息をすることさえ忘れ、全身の血の気が一気に引いていく。
ゆっくりと顔を上げたその青年と、真っ直ぐに視線が交差した。
プラチナを含んだ美しいシルバーグレーの髪。
あの眩い、王城の月夜の庭園。
花粉と泥水に濡れ、世界中から辱めを受けていた無様な自分に、そっと極上のハンカチを差し出してくれた人。
心配性なほどに最悪の症例を口にして、私の生意気な医学の知識を「素晴らしい知性だ」と愛おしそうに肯定してくれた人。
『必ず、貴女を迎えに行きます。だから他の誰の言葉も気にせず、私だけを信じて、待っていてくれませんか?』
あの、絹のように優しく、私の魂を救ってくれた真摯な声。
片時も忘れることなく、引き出しの中の上着を抱きしめては恋焦がれて、愛おしんで、私の暗闇の檻を照らす唯一の光だった、あの最愛の人――。
(……そんな、嘘……どうして……っ)
目の前が真っ暗になり、激しい眩暈が私を襲う。
彼と結ばれる未来なんて、最初からどこにも存在しなかったのだ。
私が心の底から愛し、迎えを信じて、あの方に相応しい完璧な淑女になろうと地獄のような日々を耐え抜いてきた「運命の人」は――
あろうことか、今日、私の目の前で、私のすべてを奪い去っていった最悪の妹・エリシアの、未来の婚約者としてそこに佇んでいた。
彼が「グレインフィール家の才女」と呼び、愛おしそうに見つめていたのは、私の論文を盗み、私の功績をすべて我が物にしたエリシアのことだったのだ。
手足の先から、凍りつくような絶望が這い上がってくる。
あの方のゴールデンアンバーの瞳が、驚きと、そして何かを確信したような強い光を帯びて私を射抜いていたけれど、今の私には、その眼差しを受け止めるだけの心の破片すら、もう残されてはいなかった。




