深まる泥中の教養、虚飾の妹とすれ違う天秤
そんな暗澹たる日々の中、屋敷へ出入りする王都一流の教師たちは、すでに誰もが気づいていた。
マナー、ダンス、語学、歴史――これまで授けてきたすべての高等教養を貪欲に吸収し、真摯に体現していたのは、両親が盲目的に褒め称える「エリシア」などではなく、日陰の独房に追いやられた私であるという厳然たる事実に。
私が伯爵家に缶詰めとなり、ただ机に向かって教養を身につけていることは、図らずも私に圧倒的な牙城をもたらしていた。外の誘惑に一切惑わされることなく、社交界の複雑な派閥闘争や国際情勢、そして最高峰の淑女としてのマナーを脳裏に完璧に叩き込む。私とエリシアの差は、誰の目にも明らかなほど、天と地へと開いていっていた。
「……アリア嬢。例の、国家試験レベルの高度な歴史・国際情勢の課題の件ですが……」
ある日の講義の後、白髪交じりの年配の教授が、周囲の目を気にするように声を潜めた。
「申し訳ありません。伯爵様にも奥様にも、真に教養を身につけておいでなのは貴女様だと何度も報告しようとしたのですが……お二方ともエリシア様の言葉しか信じず、聞く耳を持っていただけなくて……っ」
「いいのです、先生。分かっていますわ」
私は、ただ穏やかに微笑んだ。
「私の知識や課題が、表舞台で私の功績にならなくとも構いません。先生方のような素晴らしい知識人が、本当の私を理解してくださり、こうして多くの教えを授けてくださる。それだけで、私は十分に満たされておりますの」
「アリア嬢……っ!」
教師たちは、伯爵家の権力の前には表立って私の味方をするわけにはいかなかった。
けれど、彼らは一様にアリアという稀代の天才令嬢に深く陶酔し、魅了されていた。外で無知を晒し続けるエリシアへの失望が深まれば深まるほど、彼らは陰で門外不出の貴重な書物を私に融通し、最高峰の助言を与え、文字通り一丸となって私を支え続けてくれたのだ。
「貴女の努力と、その美しき品性は、必ずどこかで世界に実を結びます。私たちは、いつでも貴女の味方です」
教師たちは、不甲斐ない自分たちを戒めるように瞳を潤ませ、深く、深く、私に対して臣下の礼をとるように頭を下げた。
この冷え切った伯爵家で、初めて自分の「本物」を愛してくれる味方ができたのだ。それからの私は、家族と刺々しい会話を交わすことよりも、教師陣と過ごす濃密な授業の時間に、至上の幸福を感じるようになっていった。
一方で、私の論文を盗んで華々しく社交界へと躍り出たエリシアは、順調に顔を広げているようだった。……だが同時に、彼女の我が儘で傲慢な本性、傷つきやすいプライド、そして何より「胃に穴が空くほど絶望的なマナーの悪さ」もまた、裏で深刻な問題になり始めていた。
「申し訳ありません、アリア様……っ! 私は止めたのです、ですがエリシア様は……っ!」
ある日、レディズ・コンパニオン(社交界の付き添い)としてエリシアに同行していたマナーのイザベラ先生が、真っ青な顔で私の部屋に駆け込んできた。
その額からは脂汗が滴り、限界を迎えた胃を押さえて激しく呼吸を乱している。
「イザベラ先生!? お体の調子が悪いのですか? 一体何があったのです?」
「エリシア様のマナーは……もう、教育というレベルではございません! スープのクルトンを指でつまみ、あろうことか他家の公爵令息に投げつけるなど、あまりの暴挙に私の胃は千切れそうでございます……! しかも、ご自分が失態を犯した時だけ、あろうことか貴方様の名を語り……!」
「えっ……!? エリシアが、私の名前を……?」
一瞬、頭の中が拒絶で真っ白になる。
エリシアはある時から、自分のボロを隠して私をさらに貶めようと、故意にアリアの悪評を社交界へ広め始めていたらしい。私があの夜会で一度だけやらかした(ことにされた)失敗を利用し、自分が重大な不作法をやらかした時だけ「私は姉のアリアですわ」と私の名を騙り、自身の最悪な悪評をすべて私に擦り付けていたのだ。
おかげで私は、屋敷から一歩も出ていないにもかかわらず、「信じられないほど礼儀作法のなっていない、我が儘で下品な伯爵令嬢」として、高位貴族の間で悪名が轟くことになっていた。
高位の貴族であればあるほど、私に対する評判は最悪なものになっていく。ただ、そこまでマナーに精通しない新興貴族の取り巻きだけは増えているため、当の本人は自らの態度を改めるつもりは毛頭ないようだった。
(本当に……あの子はどこまで私を追い込むつもりなのかしら。でも、そんなことより、先生の体の方が一刻を争うわ)
目の前で、イザベラ先生が「思い出すだけで胃がキリキリと……いえ、灼けるように痛む」と、もはや立っていられずに崩れ落ちる。エリシアの無軌道な暴走を裏で必死にフォローし続け、心労で胃壁が破壊されているのは明白だった。私が独学で猛勉強している医学の専門書によれば、これは過度なストレスによる急性胃潰瘍の兆候だ。
「エリシア嬢と……またお茶会に付き添わないといけないと考えるだけで、お腹が痛くなります……っ」
「先生、妹が本当に申し訳ありません。先生の命がけのフォローがあるからこそ、あの子はまだ社交界に居座っていられるのですわ。姉として、心から感謝申し上げます。……さあ、こちらを」
私は机の引き出しから、医学書を参考に私自身が秘密裏に調合しておいた、胃の粘膜を保護し、胃酸の分泌を抑えて炎症を鎮める特別な生薬の丸薬を取り出し、彼女の手のひらに握らせた。
「これを、食前に白湯で服用してください。胃の粘膜を保護し、劇的に痛みが緩和されるはずですわ。どうかご無理をなさらないで。先生に何かあれば、私も悲しいですから」
「ああ……ありがとうございます、アリア様。貴女様は、このような泥の中に咲く、まるで本物の天使のようです……っ。作法だけでなく、これほど深い慈悲の心と知識をお持ちだなんて……」
「そんな大げさですね。人として当然の嗜みですわ」
私とエリシアの差は、時間が経てば経つほど、天と地ほどに開いている。それを実感せずにはいられなかった。
けれど、私の胸には焦りもあった。
このままエリシアの悪評が広まれば、ヴァルツァー侯爵家との縁談そのものが破談になってしまうかもしれない。医師の家系である最高位の侯爵家が、妹の浅慮や教養の無さを見抜けないはずがないのだ。エリシアには何の問題もなく、あの偉大な侯爵家に嫁いでもらわなければ困る。
(でも……ここで私に悪評がついたのは、むしろ幸運かもしれないわね)
ふと、私は胸の奥で、あの月夜の紳士の面影を思い浮かべた。
ヴァルツァー侯爵家の人々は、私のことを「自慢ばかりで品のない出来損ないの令嬢」だと思って忌み嫌い、婚約を拒絶してくれるかもしれない。けれど、私の愛したあの運命の人は、本物の教養を持つ者がどちらなのか、ちゃんと分かってくれている。彼さえ私を信じてくれれば、他には何も要らない。
いよいよ、社交界デビューから三ヶ月。
ヴァルツァー侯爵家からの申し出で、私は初めてとなる正式な「顔合わせの席」を迎えようとしていた。5年の歳月を経て、ようやく侯爵家も重い腰を上げて、こちらの縁談に前向きなようだ。
この席で、私は身の程を弁えた出来損ないとして、静かに婚約を辞退しよう。そうすれば、縁談は予定通りエリシアのものになり、私はあの人と結ばれる未来へと歩き出せるはず。
「どうか、何事もなく、無事に終わりますように……」
私はドレスの裾を強く握り締め、心臓の激しい鼓動を感じながら、その運命の瞬間を静かに待っていた。




