泥中から星へ、私を変えた月光の誓い
顔が、耳の裏まで一気に熱くなっていく。羞恥のあまり、もう顔を上げることすらできない。
「わ、私なら……もし、貴方様からの申し出であれば……喜んで、お受けすると……思います……っ」
蚊の鳴くような、必死に絞り出した小さな、けれど確かな告白だった。
それを聞いた彼は、愛おしさに耐えかねたように目を細めると、私を助けるために彼が丁寧に花粉を拭ってくれた、私の髪へと優しく接吻を落とした。私の顔は完全に限界を迎えて真っ赤に染まる。
「あはは! まるで熟したリンゴのようですね」
「か、からかわないでください……!」
膨れる私を宥めるように、彼は今度は、自らの手のひらで包み込んでいた私の手首を取り、その甲へと深く、誓いを立てるように唇を落とした。
「貴女のおっしゃる通り、私は世界で一番素敵な良縁に恵まれたようです。……ふふ、まるで奇跡だ」
「あ、あの……! そんな、今のはあくまで仮定のお話で……! 私のような者に、貴方様のようなお方はあまりにも勿体なすぎまして……あの……」
途端に怖気づいて言い訳を並べる私に、彼はわざとらしく困ったような、ひどく艶のある笑みを浮かべて顔を近づけてきた。
「自分で私からの申し出をお受けするとおっしゃったのに、もう私を袖にするのですか? ……酷い人だ」
「い、いえ! 私がそんな大それたこと、できるわけありません! ただ、私のような日陰者では、貴方様に釣り合わないと……」
――その弱気な言葉を最後まで紡ぐことは、許されなかった。
「――ならば、逃がさないように捕まえておくしかありませんね」
低い囁きと共に、視界が彼の胸元で覆われる。
気付けば、私は彼の逞しい両腕の中に、思い切り抱きしめられていた。
上質な仕立ての衣服越しに、彼の力強い鼓動と、熱い体温がダイレクトに伝わってくる。
「私は貴女を生涯の伴侶とし、共に暮らしたい。私の申し出を受けてくれますか?」
突然のプロポーズに私は目を見開いた。こんな奇跡があるだろうか。
ドレスは花粉まみれ、社交界で辱められ、父に身一つで売られそうになっている絶望の渦中に、好きになった人が私を好きになってくれたのだ。堰を切ったように涙があふれ、私はこの奇跡を全身で受け止めていた。
「……はいっ」
生まれて初めて経験する、男性からの情熱的な抱擁。
今までの人生で一番、心臓が痛いほどに激しく跳ね上がる。彼の腕の中に完全に閉じ込められ、頭の中が真っ白なパニック状態に陥る私に、彼は耳元で、言い聞かせるように熱く、低く囁いた。
「――必ず、貴女を迎えに行きます。だから他の誰の言葉も気にせず、私だけを信じて、待っていてくれませんか?」
貴族の社交界デビューの初日に、たった一晩言葉を交わしただけのみず知らずの男性のプロポーズを受けるなんて、あまりにもお伽話が過ぎるかもしれない。
でも、私は確実に彼に恋をしていた。この情熱的な申し出を断る理由など、どこにもない。
彼は、グレインフィールのことを良く知っている貴族の様だ。私が知らない間に家族は医学に精通する貴族と顔が広くなったのだろうか。それならば、あの強欲な父もこの婚約話を無下にはしないだろうと私は予測していた。
……どうせ、我が家に届いている「ヴァルツァー侯爵家との縁談」は、天才令嬢であるエリシアのものになるのだ。私は侯爵夫人になんてなれなくていい。この、私のすべてを肯定して抱きしめてくれる素敵な紳士に相応しい妻になれるなら、他には何も要らない。
「――はい。……貴方様を、信じてお待ちしております」
気づけば、心の底からの本音を、そのまま返事として口にしていた。
「ありがとう……。本当に名残惜しいですが、馬車の準備が整ってしまったようです。さあ、参りましょうか、私の愛しい人」
「……ありがとうございます。本当に、何から何まで……」
震える声で感謝を告げると、彼は少しだけ目を目を細めて、愛おしさが堪えきれないというように満足そうに笑った。
パーティーの大広間から外の馬車留めまではかなりの距離があるはずなのに、彼と腕をしっかりと絡ませ、エスコートされて歩く時間は、一瞬の閃光のようにあっという間に過ぎ去ってしまった。
「身体をよく温めて、今夜はゆっくり休んでくださいね」
馬車の中へと極上の所作でエスコートされ、扉が閉まる。馬車がゆっくりと動き出してからも、私は窓にへばりつくようにして、夜の闇に遠ざかっていく彼の美しい佇まいを何度も、何度も見つめ続けていた。
(……この人と。)
胸の奥で、人生で初めての、はっきりとした、強固な「願い」が芽生える。
(この人と、結婚したい。この人の隣にいたい)
王城に残るエリシアに、ヴァルツァー侯爵家との縁も、グレインフィール家の才女の名声も、すべて奪われても構わない。ただ、この素敵な紳士に胸を張れる、賢く美しい自分でありたい。私は生まれて初めて、心から自分のためにそう願った。
伯爵家の暗い独房へと戻った私は、昨日までとは打って変わって、猛烈な勢いで自分を磨き始めた。
すっかり埃をかぶっていた医学の専門書をありったけ引っ張り出し、狭い独房の床に積み上げた。座りながら、時には部屋を歩きながら貪るように愛読し、寸暇を惜しんで知識をアップデートしていく。
これまで嫌がらせのように詰め込まれていた貴族としてのマナーや、格式高いダンスのステップ。それを、彼に引けを取らない「完璧な淑女」になるためのロケットに変えた。
「最近はやる気が出たようだな。これなら、侯爵様に合わせても問題ないだろう」
「本当ね。最初からこうしてくれたらよかったのに」
私の豹変ぶりに、両親は安堵したようにそう零していた。
これまでは家のため、不条理な対面のために強制されていた行為だった。しかし、今のこの知識と教養は、明確に「私自身のため」のものだ。モチベーションが違うのは当たり前だった。
冷え切った独房の温度を忘れるほど、私の胸は未来への希望で熱く燃えていた。
いつか彼が私を迎えに、この檻の扉を開けてくれた時に、絶対に失望されたくない。それだけが私の心を変え、この絶望の家で生き抜くための、新たな意味を見出していた。
そう彼と再会するあの日までは――――。




