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運命だと思っていた相手は、妹の婚約者でした  作者: Aro Aiura


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月下の深淵、絡め取られる心と早鐘の告白

大広間の冷酷な喧騒を遠くに聞きながら、私たちは完全に二人の世界にいた。

庭園には大輪のバラが咲き誇り、甘やかな香りを夜風に漂わせている。目の前に広がる湖は、まるで大きな鏡のように満月を美しく映し出していた。そして何よりも、この幻想的な空気を作り出しているのは、私の隣にいる美しい紳士その人だった。


「あ、あの……会場にお戻りにはならないのですか?」


「ああ、社交はもう十分に楽しみましたから。私が退屈な場所へ戻る必要はありませんよ」


彼はパーティー会場に戻ろうともせず、冷え込む夜の庭園で、ずっと私のためだけに時間を費やしてくれた。その間も、私の身体は緊張でカチコチに硬直したままだ。実の父親以外の男性と、それもこれほどの美青年と、こんなにもロマンチックな雰囲気の中で見つめ合っている。この王城に来てから、まるで御伽噺の絵本の中に迷い込んでしまったかのような、夢見心地だった。


そのうち、会場からはダンスの開始を告げる美しいワルツの旋律が風に乗って聞こえてくる。彼にも一緒に踊るべき立派な令嬢がいるのではないか、こんなところで自分のせいで足止めをしてしまうのは、あまりにも申し訳ない気がしていた。


「し、しかし……ダンスの時間となりましたよ? 貴方様にも、お相手のご令嬢がいらっしゃるのではないですか?」


私が彼を会場へと促そうとすると、彼は私の思惑を透かすように、ふっと艶やかに微笑んだ。


「一緒に踊る令嬢などいませんよ。……ですが、貴女がそこまでその音楽を気にされるのでしたら」


そう言って、彼はベンチから静かに立ち上がり、私の前に進み出て、綺麗な手のひらをそっと差し伸べてきた。


「一曲、私にお相手をしていただけませんか?」


「あ、いえ……! 私のことではなくて……。それに、私はマナーの先生以外の方と、まともに踊ったことがなくて……」


ドレスを泥で汚され、社交界デビューに失敗した私が、こんな最高峰の紳士と踊るなど身の程知らずにもほどがある。やんわりと断ろうとする私を、彼は完全に遮るように、魅力的な声を響かせた。


「奇遇ですね。私にとっても、社交界で踊るのは貴女が初めてです。つたない部分もあるかと思いますが、大目に見てくださいね」


拒む隙すら与えられないまま、流れるように彼の手が私の腰へと回される。

私たちは、月明かりに照らされた二人きりの庭園で、ゆっくりとステップを刻み始めた。

貴族社会において、夜会で二度以上踊ることは、その男の『婚約者』になる者にしか許されない特別な栄誉。それが頭の片隅で分かっていながらも、リードする彼の大きな手の温もりと、あまりの優しさに、私はその手をどうしても振り払うことができなかった。


いつまでも、いつまでも、この夢のようなワルツが続けばいいのに。

流れるように踊りながら、私たちの会話は自然と、日常の些細なことから、我が家――グレインフィール伯爵領で栽培している薬草の話題へと移っていった。


「やはり、患者様のお身体に直接投与されるものですから、化学合成されたものよりも自然由来の有効成分が一番ですわ。ですから我が領地では、土壌の選定から栽培にいたるまで、並々ならぬ力を注いでいるのです」


「ええ、知っていますよ。グレインフィールの安定した薬草供給のおかげで、安価で良質な治療が行えていると、平民の間でも非常に評判が高い。素晴らしい功績だ」


「そ、そうですね……。妹のエリシアは、本当に寝る間も惜しんでよく勉強しているのだと思います。本当に、凄いですよね……」


自分で言いながら、胸の奥がチクリと痛んだ。私の培った実績を、あたかもエリシアのものとして語らねばならない冷酷な現実。急に現実の地獄に引き戻され、私は寂しく視線を落とした。


「……どうして、それを妹君の手柄だと仰るのですか?」


彼の静かな、すべてを透かすような問いかけに、私は小さく首を傾げ、無理に笑顔を作って取り繕った。


「我が家では、()()()()()()()()()()のです。妹は着実に貴族社会を渡り歩いているのに……私は今日の社交界デビューすらあんな風に失敗してしまって。自分が、本当に情けないです」


「そんなことはありません」


遮るような、地響きのように強い声だった。驚いて顔を上げると、彼は真摯な目で私を真っ直ぐに見つめていた。


「貴女の持つ医学への深い教養も、洗練された品性も、すべて本物だ。……どうか、これ以上ご自分を卑下しないでください」


その言葉が、ずっと地下の独房で誰にも認められず、暗闇で泣いていた私の魂の奥底に届いた気がした。堰を切ったように目頭が熱くなる。私は慌ててレースの手袋で、目元をトントンと叩いて涙を誤魔化した。


「……ありがとうございます。そう言って頂けて、本当に嬉しいです。今日という日は最悪の始まりでしたが、貴方様のおかげで、私にとって人生で一番、有意義で温かい時間になりました。私のような日陰者を、これほど素敵な紳士に気に留めていただけるなんて、身に余る光栄です」


「素敵な紳士……? 貴女は、私のことをそのように思ってくれるのですか?」


「もちろんです。会場でも、貴方のご活躍にご令嬢方が釘付けになっていましたわ。貴方様ほどの高潔でお美しいお方であれば、きっと近いうちに、素晴らしい良縁に恵まれること間違いありません」


一歩引いて、彼の幸せを願うように微笑む私。……しかし次の瞬間、彼は私の言葉を完全に遮るように、私の両手をそっと包み込んだ。




「他の令嬢など、どうでもいいのです。……私は、貴女の気持ちを聞いているのですよ」


「っ――――!」




凍えきっていた私の指先を、彼の大きな、驚くほど温かい手のひらが完全に包み込む。ベンチの上でさらに距離が詰まり、私は彼の存在感に完全に圧倒され、物理的にも精神的にも逃げ場を失っていった。


「夜風ですっかり冷えてしまいましたね。こんなに健気で、小さな手が……」


「あ、あの……」


目の前の光景から、どうしても目が離せなかった。人生でこれほど、自分が壊れ物のように大切に、愛おしそうに扱われたことがあっただろうか。

逃げようにも、私の両手は彼の大きな手に優しく、けれど強く捕らえられていて動かせない。彼のゴールデンアンバーの瞳が、至近距離から私の心の奥底まで引きずり込もうとするように、じっと射す。


「それで……貴女は、私のことをどう思ってくださいますか?」


彼の射抜くような熱い眼差しが、私の震える心を完全に絡め取っていく。

絶望の地獄から私を救い出し、誰も気づかなかった本物の私(知性)を見出してくれた、この完璧な紳士を前にして、恋に落ちない女性など世界にいるはずがない。

胸のバクバクはもう限界を超え、全身が彼の体温と自分の熱で支配されていく。


(ああ、どうしよう……。この気持ちを口にしてしまったら、私はもう、引き返せなくなってしまう……)


「わ、わたし……」


溢れ出しそうな恋情を唇の裏に張り付かせたまま、私はそれ以上の言葉を紡げず、ただ彼の美しい瞳を見つめ返すことしかできなかった。

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