月下の臨床対話、共鳴する知性と早鐘の鼓動
隣に静かに佇む彼を、横目でそっと盗み見てしまう。
月光に照らされた彼の横顔は、彫刻のように気高く美しく、圧倒的な品格に満ちていた。生まれて初めて、胸の奥がバクバクと騒がしい音を立てていて、どうしようもなく落ち着かない。
彼の名前を乞いたいけれど、彼の方が圧倒的な高位貴族であった場合、私のような立場から不躾に名乗らせるのは不敬に値する。貴族の法に縛られ、聞き出すことができずに私は困惑していた。
「目や鼻の周りに、まだ花粉が酷く付着しています。拭うので、少しの間だけ目を瞑っていてください」
「あ、あの……そんな! 貴方様のようなお方に、そこまでしていただかなくても、自分で……っ」
かぁっと恥ずかしさで顔が熱くなる。けれど、彼は私の拒絶を遮るように優しく、けれど断固とした手付きでドレスの髪紐をほどき、付着した花粉を丁寧に落としていく。
「ご自身では綺麗に落とすことは叶いませんよ? それに、花粉を侮ってはいけません。粘膜に付着した異物は、時に深刻な局所炎症を引き起こします。呼吸器に入れば、最悪の場合、急性気道閉塞による喘鳴や呼吸困難を誘発することもある」
(……え?)
一般的な貴族家庭の嗜みとしても、少々専門的が過ぎるのではないかしら。
あまりにも大真面目に、まるで臨床を経験した医師のような口調でリスクを並べる彼に、私はあまりの親近感から、思わずクスリと笑みを漏らしてしまった。
「ふふ……っ。あ、申し訳ありません。ですが、そんなにすぐには発症しませんよ。今回の白花はキク科の植物のようですから、確かに接触性皮膚炎やアレルギー性結膜炎のリスクはありますが、肥満細胞からヒスタミンが放出され、大量の粘液が分泌されるまでには、まだ数時間の潜伏期があるはずですわ」
私の言葉に、彼のハンカチを持つ手がピタリと止まった。
その綺麗なゴールデンアンバーの瞳が、驚きに微かに見開かれる。私は「しまっ、た」と内心で血の気が引いた。淑女が夜会で、こんな不気味な専門知識をペラペラと喋るなんて、絶対に引かれてしまった。
しかし、彼はすぐにいつもの穏やかな微笑みに戻ると、さらに優しく私の髪に触れた。
「……なるほど。では、手遅れ(局所炎症)になる前に落とさなくては。大人しくしていてくださいね」
ハンカチで、髪や頬についた粒子を優しく落としてくれる。その指先の温かさに、胸が締め付けられるように愛おしくなる。
「髪や肌の汚れは落とせますが、せっかくの美しいドレスの繊維に、細かな粒子が染み込んでしまいましたね。綺麗に落ちるといいのですが……」
「いえ、ここまでしていただいただけで、言葉にできないほど感謝しています。私をあの恐ろしい場から救い出してくださり、本当にありがとうございました」
私はベンチの上で彼に真っ直ぐに向き直り、心を込めて深々と頭を下げた。
「やはり、素晴らしい。一つ一つの所作が、恐ろしいほど洗練されている。グレインフィール伯爵家は、一朝一夕では身につかない本物の教養を貴女に授けておいでだ。私にはよく分かります」
「そ、そんな……私など、貴方様に比べれば――」
大広間で私を罵倒していた有象無象の貴族たちとは、完全に相反する評価を、彼は私にくれた。
彼は私の隣に腰掛け、じっとこちらを見つめている。男性への免疫がなさすぎる私は、照れくささのあまり彼の視線をまともに見返せずにいた。すると、夜風が私の細い肩を揺らす。
「夜風が冷えてきましたね。低体温は免疫機能を著しく低下させ、あらゆる病変のリスクを跳ね上げます。……さあ、腕を通してしっかりと着込まなくては」
彼は自身の大きな上着を、私の肩から腕へと優しく通してくれた。
「しっかり身体を温めないと、急性の上気道炎……いわゆる『風邪』だけでなく、思わぬ二次感染症の引き金になりかねませんから」
ここでも極端に最悪の症例を口にする、過保護で心配性すぎる彼の言葉に、私の悪い癖が、またしても緊張のあまり溢れ出てしまう。
「ふふ……っ。あ、何度も大変失礼いたしました。ですが、そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。風邪などの急性呼吸器疾患の多くは、寒さそのものよりも飛沫によるウイルスや細菌の感染が主因ですから。これだけ空気の澄んだ開けた庭園で、防衛体力の高いこの暖かい時期であれば、純粋な寒冷刺激だけで発症するリスクは極めて低いですわ」
――言ってから、私は完全に凍りついた。
(ああ、やってしまった……! せっかく私を心配して、高価な上着まで貸してくれた紳士を前に、私はなんて可愛げのない、無粋な反論を……!)
女が生意気に医学の理屈を並べ立てて、男の心配を笑顔で論破したのだ。呆れられただろうか、不躾だと怒られはしないだろうか。頭の中が後悔と恐怖でぐるぐると駆け巡り、私はすっかり怯えて縮こまってしまった。
しかし――隣の彼は、怒るどころか、見たこともないほど深く、激しい歓喜の光をその瞳に宿して、私を凝視していた。その目はまるで、ずっと探し求めていた、世界にたった一つの「至宝」を見つけたかのように輝いている。
「……常在菌や飛沫による病原体の識別、環境因子の影響まで正確に把握している、か。……なるほど」
彼は得心のいったように、小さく、けれど確信を込めて独りごちた。
「――やはり、こちらが本物の『グレインフィール家の才女』だったわけだ」
「え……? 何か仰いましたか」
「……いいえ、何でもありません。ただ、貴女のその素晴らしい知性と、美しい言葉に、深く感銘を受けました」
彼はそう言って、月明かりの下で、本当に愛おしそうな、蕩けるような微笑みを私に向けてくれた。
お互いの「医学の好み」が、恐ろしいほどの高次元で一致している。その奇跡のような幸福感に包まれながら、私は彼の貸してくれた上着の圧倒的な暖かさを感じていた。
これが上質なウールの生地によるものなのか、それとも、私の心臓が早鐘のように鳴り響き、全身に熱を巡らせているからなのか――
この時の私には、彼の正体も、この胸の痛みの正体も、何一つ判別がつかないままでいた。




