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運命だと思っていた相手は、妹の婚約者でした  作者: Aro Aiura


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泥中に舞う奇跡、月光の救い手

ほんのひと時の、泡沫うたかたの幸福だった。

これまでの努力が、本物の高位貴族たちに認められた。その温かい高揚感に、私はほんの少しだけ浮足立っていたのだ。


――だから、背後から音もなく迫る、ドスの利いた明確な悪意に、気づけなかった。


背中に、不意に強烈な衝撃が走る。

「……えっ!?」

突き飛ばされるように足を取られ、よろめいた次の瞬間、視界いっぱいに白い大輪の花が弾け飛んだ。


ガシャ―――ンッ!!!


大広間の壁際に飾られていた、身の丈ほどもある巨大な白磁の装飾花瓶が、激しい音を立てて粉々に砕け散る。

溜まっていた大量の水と、ちぎれた花弁、そしてねっとりとした黄色い花粉が一気に頭から降りかかった。


「きゃあ!?」


周囲から鋭い悲鳴が上がる。私は冷たい床の上へ、無惨に叩きつけられていた。

仕立てたばかりのドレスは容赦なく水浸しになり、艶やかに整えられたばかりの髪も、頬も、泥水と花粉で酷く汚れていく。


「まあ……なんてことかしら」

「信じられない。王城の夜会でなんて品のない……」


一瞬にして、大広間が不躾なざわめきと、冷酷な好奇の視線で満たされた。

パニックになりながらも、濡れた前髪の隙間から顔を上げると――背後にあった重厚なカーテンの影から、エリシアがわざとらしく口元を押さえ、愉悦に瞳を歪めてくすくすと笑っていた。


(……ああ。やっぱり、貴方なのね)


すべてを理解してしまった瞬間、さっきまで温かかった胸の奥が、一瞬で氷結していく。


「アリア!! 貴方は一体、何をしているのですっ!」


人混みを割って、母マルティナのヒステリックな怒声が響き渡った。


「王城という神聖な場所で、これほど醜悪な失態を演じるなんて……! だから貴方はいつまで経っても出来損ないなのよ!」


両親の容赦のない言葉に、周囲の貴族たちがひそひそと嘲笑の声を潜める。遠くからその怒声を聞きつけた父・ロベルトも、鬼のような形相でこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。

さっきまで私と楽しく言葉を交わしていた令息たちも、関わり合いになりたくないと言わんばかりに、信じられないものを見るような目で私を見つめ、一歩、また一歩と距離を取っていく。


無数の刃のような笑い声が、容赦なく私の耳に突き刺さる。


(……立たなきゃ。早く、ここから消えなきゃ……)


そう思うのに、あまりの出来事に足が震えて、どうしても力が入らない。

私がもたついているのが気に入らないのか、周囲の視線を過剰に気にした父が、私のすぐ目の前まで来ると、憎しみを込めて低く吐き捨てた。


「アリア、いつまで無様に這いつくばっているんだ! この、グレインフィール伯爵家の恥さらしめがっ!」


烈火のごとき怒りと共に、父の手が大きく振り上げられる。私は生まれて初めて叩かれたあの日の恐怖が鮮烈に蘇り、思わず身を縮めて、ぎゅっと目を瞑った。


――だが、待てど暮らせど、冷酷な衝撃は来なかった。





「――そこまでだ。自分の娘とはいえ、少々無作法が過ぎるのではないですか?」





低く、チェロの重低音のように深く、驚くほど凛とした声が大広間に響き渡る。

次の瞬間、私の小さな身体を完全に覆い尽くすほどの長身の影が、激昂する父と私の間に、絶対的な威風をもって立ち塞がった。


「……!?」


恐る恐る目を開けると、そこにいたのは、燃えるようなゴールデンアンバーの瞳を持った、息を呑むほどに美しい青年だった。プラチナを含んだような美しいシルバーグレーの髪が、大広間の光を浴びて神聖に輝いている。

先ほど挨拶を交わした誰でもない。私に救いの手を差し伸べてくれたのは、見ず知らずの紳士だった。


けれど、彼は激しく狼狽する私の両親を完全に無視し、床にへたり込む私へと優しく視線を落とした。


「大丈夫ですか? お怪我は?」


「あ……ありません。大丈夫、です……」


「そうですか。それは何よりだ」


青年は、張り詰めた室内の空気を一瞬で和らげるような極上の微笑みを浮かべた。そして、私の泥を被った冷え切った手に、驚くほど温かく、それでいて酷く繊細な手を重ねてくれた。


「さあ、私の手に掴まって。……立てますか?」


「あ、ありがとうございます……っ」


壊れ物を扱うようにゆっくりと私を床から抱き起こすと、彼は衣服のポケットから清潔な、高級な香水の香りがする白のハンカチを取り出し、私の汚れた頬をそっと優しく拭ってくれたのだ。


そのあまりの美しさと気高さ、そしてあまりの至近距離に、私の心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。



「……さぁ、この場を離れましょう。静かで、空気の良い庭園がありますから」



拒む間もなく、彼は自然で流れるような動作で私の腰を優しく支え、歩き出した。そのエスコートの所作は、今まで見たどんな貴族よりも洗練されており、そして、涙が出るほど暖かかった。


「お待、お待ちください! その、その娘は――!」


背後から、父の聞いたこともないような慌てふためいた絶叫が聞こえた。

驚愕に思考が停止しそうになる私を抱えたまま、青年は歩みを止めることなく、ただ一瞬だけ、冷徹極まりない絶対強者の視線で父を一瞥した。


「今は、根拠のない叱責よりも、令嬢の身の安全と休息が必要でしょう。……これ以上、私の前で不愉快な騒音を立てないでいただきたい」


冷酷なまでに凛としたその一言で、騒がしかった大広間が、一瞬にして水を打ったように静まり返った。私を蔑んでいたはずの令嬢たちの誰もが、青年の圧倒的な美貌と威風に釘付けになり、言葉を失っている。エリシアに貶められ、どん底に落とされたはずの私は、この謎の紳士に文字通り攫われるようにして、二人で会場を後にしたのだった。


会場の外へ連れ出され、美しい月明かりが差し込む静かな夜の庭園へと辿り着いた。

彼は周囲に人がいないことを確認すると、私を傍のベンチにそっと座らせ、自分の仕立ての良い極上の上着を丁寧に脱いで、私の肩へと深くかけ直してくれた。


「あ、あの……大丈夫です! 貴方様の、こんなに綺麗な上着が汚れてしまいます……!」


彼の体温が残る上着の温もりにハッと我に返り、私は慌てて上着を返そうとした。花粉と泥水でまみれた私が触れば、彼の完璧な気品を汚してしまう。

けれど、彼は私の拒絶を大きな手で優しく制し、さらに深く、私を包み込むように上着を重ねた。


「……酷く震えていますよ。このままでは風邪をひいてしまいます。衣装の汚れなど、いくらでも替えが利く」


「で、でも……私、こんなに、見窄らしくて……皆様の言う通り、恥を晒してしまって……」


「気にしないでください」


青年は、まるで夜の闇を優しく照らす月光のように、柔らかく微笑んだ。


「貴女は、何も恥じることはありません。……どうか、私を頼ってください」


「え……?」


一瞬、彼はあの惨劇の真相――エリシアが私を背後から突き飛ばしたことを見抜いているのだろうかと、心臓が大きく跳ね上がった。けれど、彼はそれ以上何も言わず、ただ私のすべてを肯定するように、琥珀色の瞳でじっと見つめてくれている。


家族からも、集まった貴族たちからも見捨てられ、居場所を失っていた私の胸の奥に、彼の言葉が、熱い、熱い灯火となって広がっていく。

理由も聞かず、ただ私という存在を泥の中から救い上げ、寄り添ってくれる温もり。


(……どうしよう、心臓の音がうるさい……っ)


見ず知らずの美しい紳士に救われたことで、私の心臓は大きくときめいていた。彼の瞳や髪が月色にそまり、同じ人間とは思えない美しさで、微笑みかけてくれる。 それだけで、私の胸はもういっぱいいっぱいで、破裂しそうになっていた。


暗闇に支配されていた私の世界に、たった一人の「運命の人」が、確かに現れた瞬間だった。

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