狂い始めた歯車、虚飾の令嬢と戦場の再会
家族総出での強硬な挨拶回りをどうにか終え、私とエリシアは早々に両親の元から離れた。ヴァルツァー侯爵家が会場に到着するまでの、束の間の自由時間というところだ。
「おお、エリシア嬢! お会いできて光栄です。貴女が例の特効薬の精製法を発案された、グレインフィール家の稀代の才女ですね!」
「噂に違わぬ美しさだ。これほどの最高峰の知識を持ちながら、まるで夜会に咲き誇る大輪の花のようだ!」
次々とかけられるのは、妹への熱狂的で、中身のない称賛の言葉ばかり。
「グレインフィール家の才女」として名を轟かせたエリシアに群がる貴族は多かった。エリシアは自分が成し遂げたわけでもない私の手柄を完全に我が物顔で誇り、小首を傾げて可憐に微笑んでみせる。
「ありがとうございます。そう言って評価していただけて、とても嬉しいですわ」
その甘ったるい仕草に、周囲のうら若い令息たちは一瞬こそ頬を染めた。……だが、それも最初だけだった。エリシアは令息たちの賞賛を鵜呑みにし、自慢ばかりをひけらかしている。
私はエリシアとは別行動し、離れたところから妹の様子を冷ややかに見つめていた。
(……私が知らないだけで、実際の社交なんてこんなものなの……? 淑女としての会話術も、挨拶の際の手の添え方も、立ち振る舞いも、なんだか違和感が……。大丈夫なのかしら?)
私の不安は、あまりにも早く的中した。
私はエリシアの引き立て役として、ただ大人しく壁の花を決め込んでいた。しかし、実績を並べ立てて鼻を高々にしていたエリシアは、注目を浴びて調子に乗ったのか、次第にボロが出始めていた。自慢話の合間に見せる、軽く引きつるような手の動かし方、ワイングラスの不作法な持ち方、そして他家の令嬢を薄笑いで見下す高慢な態度。格式高い大広間で、彼女は確実に「悪目立ち」し始めていたのだ。
「ぼ、僕はこれで失礼しますね。どうぞ、皆様で続きをお楽しみください」
「わ、私も今夜はこの辺で……」
「ちょ、ちょっとお待ちになって……っ!」
上流階級の本物の貴族たちは、彼女の教養の無さとマナーの悪さに即座に見切りをつけ、冷ややかな一瞥をくれて足早に彼女の元を離れていった。「才女」という大層な肩書を背負っていたからこそ、その程度の低い実態を目にした者たちの失望は、より一層冷酷なものとなって広がっていく。両親は自分たちの挨拶回りに奔走しており、この異常事態を止める者は誰もいない。
(ああ、やっぱり駄目なのね。これほど華やかな社交界において、相手を不快にさせないマナーはやはり必須……。5年も貴族として英才教育を受けていたはずなのに、エリシアの勉強嫌いは相変わらずみたいね……)
このままエリシアが孤立し、万が一にもヴァルツァー侯爵家と対面したらどうなるのだろう。いい気味だ。だが、その失態の連帯責任を負わされてわが身に降りかかる火の粉は跳ね除けなければならない。どうにかして、もう一度逃げなくてはと、私は逃亡の意志を固めていた。
「――グレインフィール伯爵家のご令嬢とお見受けいたします」
不意に、頭上から低く心地よく響く、どこか冷ややかで落ち着いた声がかけられた。
驚いて顔を上げると、そこには漆黒の夜会服を完璧に着こなした、圧倒的な気品と冷徹な風格を纏う青年――あの戦場で生死を共にした、ノア・フェリクス・リーヴェルが立っていた。
「はい。ロベルト・グレインフィールが娘、アリアと申します」
私はあわてて初対面を装った。動揺を内に秘め、ゆっくりと背筋を伸ばす。
地下の独房から引きずり出された後、マナーのイザベラ先生と何度も、何度も、足が動かなくなるまで練習を重ねた、非の打ち所のない完璧なカーテシーを披露する。
彼の背後には、私の一挙手一投足を見守るように、いかにも身分の高そうな高位貴族たちが一歩引いて控えていた。リーヴェル辺境伯令息である彼と懇意にしている貴族だろうか。ここで失態はできないと私は身を引き締めた。
私の流れるような洗練された所作を目にした瞬間、青年の切れ長の瞳が、ふっと驚きと深い感嘆に揺れた。
「フフ……やはり貴族令嬢だったのですね、リア先生。まぁ、知ってはいましたが、今更取り繕わなくても結構ですよ」
その一言一言が、実家でずっと否定され、乾ききっていた私の胸の奥へ、温かい雫となって静かに落ちていく。涙が出そうなほど嬉しかった。あの泥塗れの戦場での私の努力を、医師としての腕を、ちゃんと見て、分かってくれる人がここにいる。
「……申し訳ございません。リーヴェル辺境伯令息様、その寛大なお心に深く感謝いたします。……失礼ですが、どうして私がグレインフィールだとお分かりになったのですか?」
私が微笑みながら少しの疑問を口にすると、ノア様もフッと口元を綻ばせ、はぐらかしながら、隣に寄り添う美しいご令嬢の腰をそっと引き寄せた。
「さぁ、どうしてでしょうね。それよりも、一緒に戦場を戦った仲ではありませんか。こうして社交界で再会したのも何かの縁です。 どうぞ、ノアとお呼びください。しかし、これほどの教養と観察眼を身につけながら、相変わらず謙虚な方だ。……なぁ、僕の愛しい婚約者殿? 君にも彼女の爪の垢を煎じて飲ませたいものだね」
「もう、ノアったら! 知り合いのご令嬢の前で、私のことをからかわないでくださいませ!」
エスコートされているご令嬢が、頬を少し赤くして、可愛らしい嫉妬の眼差しを彼に向けていた。
けれど、彼女が纏う最高級のシルクドレスは、ノア様の瞳と全く同じ「深い夜の色」をしている。お互いを誰よりも信頼し、愛し合っているのが一目で分かる、本当に仲睦まじいお二人だった。
「社交界は初めてでしょう。紹介しますよ、こちらが――」
気づけば、悪目立ちして孤立していくエリシアの周囲とは対照的に、次期辺境伯であるノア様を中心に、私の周りには本物の教養を愛する高位貴族たちの、穏やかで知性溢れる輪が自然と出来上がっていた。向けられる純粋な敬意の視線に、久しぶりの事ゆえ戸惑いながらも、認められることの嬉しさに、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。
ひとしきり知性ある挨拶と交流を交わした後、私はまた目立たないように壁際へと下がり、そっと一息ついた。けれど、ノア様との会話を見ていた他の令息や令嬢たちが、次々と私に声をかけてくる。お互いの領地の歴史や医療文化についての高度な対話を、私は完璧なマナーで返し、笑顔を交わす。
引き立て役として連れてこられたはずなのに、私は一躍、夜会の隠れた人気者になっていた。これまでの地獄のような日々が嘘のように、私の心は温かい幸福感で満たされていた。
――ただ、私は気づいていなかった。
偽りの天才という化けの皮が剥がれかけ、周囲から冷ややかな目を向けられて孤立無援となった輪の中心で、私に向けられる「本物の称賛」を、血の出るような激しい嫉妬と憎悪の目で見つめている妹の存在に。
リーヴェル辺境伯令息という強大な高位貴族の存在も、私が戦場で築き上げてきた絆も、エリシアは何も知らなかった。だからこそ、日陰の出来損ないであるはずの私が、自分の手の届かない輝かしい輪の中心にいることが許せなくてたまらないのだ。
「どうして……どうしてあんな泥棒のクズが、高位貴族たちに囲まれているのよ……ッ!?」
形振りを構わなくなったエリシアが、再びその毒に塗れた牙を私に向けようと、ワイングラスをミシリと軋ませ、暗闇の中で激しく息を荒げていた。




