動き出す運命、師の親心と不穏な兆し
私がグレインフィール伯爵邸を捨ててから、さらに4年近くの月日が流れた。
私はもうすぐ15歳――貴族の令嬢であれば、美しく着飾って社交界デビューを飾り、華やかな夜会で恋に胸を躍らせる年頃になっていた。
だが、今の私に貴族社会との縁は塵ほどもない。
村の収穫祭があれば、素朴な麻のワンピースを揺らして陽気な村人たちと夜通し笑い、踊り明かすことはあっても、あの息の詰まるようなきらびやかなパーティーを夢見ることは二度となかった。
「リア、お前もそろそろいい年頃だ。村の若者たちから毎日のようにアプローチされているようだが、将来の伴侶などは考えておらんのかね?」
診療所のテラスで薬草を干していると、師である老医師がからかうように声をかけてきた。
「いえ、先生。私は一生、医師として生きていきたいのです。色恋沙汰には興味がありませんよ」
私はいつものように笑顔でかわした。
私は実の家族を欺き、戸籍上は死んだことにして檻を飛び出してきた逃亡者だ。どれほど過去を忘れようと努力しても、万が一にも正体が露見した時の恐怖が頭をよぎる。私を温かく受け入れてくれたこの村の人々や、家族のように慕う先生に、私の過去のせいで迷惑をかけるわけには絶対にいかない。
だからこそ、村の青年たちからの熱烈な誘いもすべて断り、私はただ一人、黙々と医療と向き合うだけの日々を過ごしていた。
だが――運命の歯車は、私のあずかり知らぬところで突如として回転を始めてしまう。
「おい、リア! 快挙じゃ、大快挙だぞ!」
ある日の朝、先生が興奮で顔を真っ赤にしながら診療所に飛び込んできた。その手には、私が夜な夜な書き溜めていた、最新の病理学と臨床データをまとめた未発表の研究論文の写しが握られていた。
「どうされたのですか、先生? その論文が何か……」
「お前があまりにも慎み深いものだから、いつまでも発表の許可をくれないだろう? だからな、私がお前の名前でヴァルツァー侯爵家へ直接送り届けてやったんじゃ!」
「な……っ、な、何をしてくださっているのですか、先生……!?」
頭を殴られたような衝撃に、私は思わず持っていた薬瓶を落としそうになった。血の気が一気に引いていくのが自分でも分かる。
「お、なんじゃ、そんなに驚いて。ずっと読ませてもらっておったが、あまりにも素晴らしい内容じゃないか! これほどの知見、一介の村医者で終わらせていいものではない。医療の総本山であるヴァルツァー侯爵様が、お前の類稀なる才能を認めてくださったのだぞ?」
「そうじゃなくて……っ! 私は、あの論文を表に出す気なんて、初めからなかったのです……!」
本気で取り乱し、声を荒らげる私に、先生はいつになく真剣な、そして慈愛に満ちた眼差しを向けた。
「リア。お前はまだ若い。この村の安寧を守ってくれるのは心からありがたいし、皆もお前を好いておる。……だがな、お前にはもっと、その才能を伸ばし、より多くの命を救うべき場所が他にあるはずじゃ。もし侯爵様がお前を中央へ召し上げられることを望めば、私は喜んで送り出そうと思っているよ」
師の言葉は、その思いは弟子として嬉しい。だが、あのヴァルツァー侯爵家に行くことだけは、どうしてもできないのだ。
私たち二人は双子。この五年で幾分かの違いがあるとはいえ、事故死したはずの姉が辺境の地で生きていることが侯爵家、ひいては伯爵家に知られれば、私はまたあの地獄のような監獄へと戻されることになる。せっかく手に入れた自由を、私は絶対に手放したくはなかった。
「先生っ! 申し訳ありませんが、今すぐその話はなかったことにしてください!」
「リア……? 何故じゃ、何故お前は自分の才能を隠そうとするんだ? ……私に、その訳を話してはくれんか?」
あまりの取り乱しように、いつもは快活な師が、医師としての深い理性を湛えた瞳で私を見つめてきた。その眼差しはどこまでも温かく、私の頑なな心を包み込むように寄り添ってくれる。
私は激しく葛藤した。けれど、私のために良かれと思って行動してくれた師をこれ以上騙し続けることはできなかった。
私はついに覚悟を決め、これまで誰にも打ち明けてこなかった自分のすべてを、震える声で話し始めた。
我が家――グレインフィール伯爵家で、ヴァルツァー侯爵様の婚約者候補として学び続け、その過程で先生に妹に実績を奪われ続けた経緯を、そして自ら実家を逃げ出し、この村に来るまでに至った流れを、涙ながらに洗いざらい話すことにしたのだ。
すべてを話し終えたとき、私の全身はガタガタと震えていた。
貴族社会を揺るがしかねない逃亡犯であり、大貴族を欺いた不届き者だ。これほど厄介な娘を拾ってしまったと知れば、優しかった師も、今度こそ私を診療所から追い出すに違いない――。恐怖で押しつぶされそうになり、私はぎゅっと目を閉じた。
しかし、静まり返った診療所に響いたのは、重い叱責ではなく、深く長い、慈愛に満ちた溜息だった。
「――リア。そうじゃったのか。何も知らず、お前の古傷を抉るような真似をして……本当にすまないことをした」
驚いて顔を上げると、師は驚愕の色を浮かべつつも、その皺深い顔をくしゃくしゃにして、私の小さな肩を包み込むように抱きしめてくれた。
「ずっと一人で、それほど重い地獄を背負って生きてきたのだな。……安心するがいい。お前が何者であろうと、お前は私の自慢の弟子であり、この村になくてはならない大切な家族じゃ。ヴァルツァー侯爵家から呼び出しがあった際は、私が『リアはただの年老いた旅医者で、すでに病没した』とでも何とでも、適当な言い訳をつけて完全に断っておくことにしよう」
そのどこまでも優しい、すべてを全肯定してくれる言葉に、私の目から大粒の涙が溢れ出た。
もっと早く、この温かい人に打ち明ければよかったのだ。私が周囲に迷惑をかけたくないと一人で抱え込み、心を閉ざしてしまったために、かえって自分の首を絞めることになろうとは。
師は、私の優れた才能を中央の表舞台で咲かせてやれない現実に、ほんの一瞬だけ、ひどく残念そうな寂しげな表情を覗かせた。けれど、怯える私を安心させまいと、すぐにいつもの破顔を見せ、力強い言葉をかけてくれた。
「これまで、本当によく一人で耐えて頑張ったの。これからはもう何も恐れることはない。安心してこの村に残り、私と共に病人を救おう。お前にはこれ以上、絶対に辛い目には遭わせん。この老骨に代えても、お前の平穏は私が守り抜いてみせる」
「先生……っ! ありがとうございます……。本当に、ありがとうございます……っ」
私は胸いっぱいの感謝を込めて、泣きながら何度も頭を下げた。こうして私は、最大の危機を脱した――そう、安堵していたのだ。
――しかし、この時の私はまだ知らなかった。
ヴァルツァー侯爵家が現当主アルベルト、そして若き天才医師である嫡男レオンハルトの親子は、五年前に突如として途絶えた「あの幻の天才」の筆跡と画期的な思考回路を、ただの一度も忘れてなどいなかったという事実を。
そして、私の論文が侯爵邸に届いたその瞬間に、すべての運命が猛烈な勢いで私を連れ戻しに動き出すことを。




