泥中から咲いた一輪の華
それからというもの、グレインフィール伯爵家がどれほど必死に文面を尽くそうとも、レオンハルト様はおろか、ヴァルツァー侯爵夫妻にさえ、ただの一度もお目通りを叶うことはなかった。
侯爵家は元より、最前線の医療事業と広大な領地経営を一身に担う超多忙な身。実績のない「無能」に割く時間など、一秒たりとも持ち合わせていないのだ。
彼らの関心を再び惹く方法はただ一つ。──「グレインフィール家の才女」が、また世界を揺るがす画期的な実績を上げること。
しかし、アリアが家を出てからというもの、残されたエリシアと家庭教師のグレイスに書ける論文など、どこにでもある凡庸な写しに過ぎなかった。
それどころか、侯爵家に絶賛されていたはずの薬草事業さえも、断末魔の悲鳴を上げ始める。
「どういうことだ、エリシア! 説明しなさい!」
呼び出された温室で、父親の怒号が響き渡る。
そこに広がっていたのは、かつて青々と瑞々しく輝いていたはずの希少薬草が、見る影もなく茶色く萎び、 腐臭を放ち始めている惨状だった。元々、ほんのわずかな環境の変化で死滅する、極めて栽培の難しい品種なのだ。
「う、嘘……。昨日までは、ちゃんと生きていたのに……っ」
エリシアは愕然と立ち尽くし、血の気を失った顔でその光景を見つめることしかできない。
「嘘なものか! 早くどうにかしろ! この薬草を待っている医療現場が、苦しんでいる患者がどれほどいると思っている!」
「そ、そんなこと言われたって……っ」
焦燥に駆られたエリシアが思いつけることなど、せいぜい「水を多めに撒いて様子を見る」程度のことだった。結果は最悪。翌日には根腐れを起こし、状況は決定的に悪化した。
アリアの部屋に押し入り、残された資料を文字通り引っ掻き回したが、そこに書かれているのは高度な数式と魔法陣の羅列。凡才のエリシアには、もはや暗号にしか見えなかった。
「どうして……どうして上手くいかないのよ! グレイス先生、早くなんとかしてください!」
「む、無理です! 私の専門は外科医療ですよ!? 薬草の土壌管理や魔力調整なんて、畑違いにも程があります!」
「見損なったわ! あなた、アリアのときはもっとまともな進言をしていたじゃない!」
「それはアリア嬢が、私の的外れな意見をすべて裏で修正していたからに決まっているでしょう!」
醜い責任の擦り付け合いの果てに、伯爵家の薬草事業は完全に破綻した。
侯爵家からの信用は失墜し、世間が持て囃した「才女」の名声は、まるで幻だったかのように急速に霧散していく。
「エリシア! いい加減に上の空でいるのをやめなさい! 一体、何をしているの、この役立たず!」
ついにはヒステリックに叫ぶ母親までもが、エリシアに詰め寄った。
「私だって必死にやってるわよ! 経験もないのに、こんなの分かるわけないじゃない!」
バシィィィンッ!
鼓膜を震わせるほど苛烈な衝撃が、エリシアの頬を弾いた。
「キャァッ!? ううっ……、酷い……っ!」
頬を赤く腫らし、床にへたり込んだ10歳のエリシアは、ただ声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。
結局、莫大な費用を払って外部の専門家を雇い、急場をしのぐ対策が取られることになったが、時すでに遅し。傾いた事業が元に戻ることはなかった。
かつてアリアが残した貯金(論文のストック)は、すでにグレイスが自分の手柄として発表し尽くしており、エリシアの身代わりになってくれる「遺産」はもう何も残されていなかった。
(許さない……。私に何も教えないまま、勝手に消えたりして……っ! 私に恥をかかせたことも、こんな目に遭わせたことも……絶対に許さないから、アリア……ッ!)
一卵性双生児。鏡写しのように全く同じ容姿を持つ、美しき少女。
片や、すべてを失ってもなお、その知性で未来を切り拓く本物の才女。
片や、すべてを奪った挙句、自らの無能さで首を絞めていく張り子の人形。
アリアのいなくなったグレインフィール伯爵家には、ただ、互いを呪い合う家族の、おぞましく重苦しい空気だけが淀んでいた。
────→────
あの冷酷な檻――グレインフィール伯爵邸を真夜中に飛び出してから、1年の月日が流れた。
現在の私は、貴族の身分を捨て平民として、ヴァルツァー侯爵領の外れにある小さな村で、一人の医師「リア」として見事な大成を遂げていた。
「リア先生、本当にありがとうございます! 先生がこの村に来てくださってから、流行り病もすっかり収まり、医療が本当に安定しましたわ」
診療所の扉を開け、一人の村人が満面の笑みを浮かべて私の元へ駆け寄ってくる。
「気にしないでください。私も好きでやっていますから。お熱はもうすっかり下がったようで安心いたしました」
私が微笑んで応えると、彼女は嬉しそうに、実家で獲れたという立派なお芋を袋いっぱいに差し出してきた。
「これはいつものお礼です! 先生がいつも安価でお薬を分けてくださるお礼だと思って、どうか受け取ってくださいな!」
「まあ、こんなにたくさん……! ありがとうございます、大切にいただきますね」
こうして、治療を終えた村の人々から、お礼と称した温かいお裾分けをもらうことは、今や私の日常茶飯事になっていた。
最初こそ「当然の仕事ですから」と固辞していたが、彼らの純粋な感謝の気持ちを無下にもできず、ありがたく受け取ることにしている。かつて、いくら素晴らしい成果を出しても罵倒と平手打ちしかくれなかった両親とは違い、ここの人々は私の努力を、知識を、真っ直ぐに愛してくれた。
患者を笑顔で見送った私は、すぐに次のカルテを広げる。
最初こそ、本の中だけの知識だったため実践への苦手意識もあったが、この一年間で私の医術はすっかり板についていた。
ただ治療するだけでなく、処置から快方に向かうまでの詳細な経過データをまとめ上げ、夜の時間は一人で新しい医療論文を執筆する心の余裕さえ出来ていた。誰にも盗まれない、私だけの純粋な研究の時間だ。
「おう、リア。朝から相変わらずよく働くなぁ」
背後から、低く温かい声がかけられた。白髪の交じった柔和な目元。この診療所を営む老医師が、お茶の入ったマグカップを片手に目を細めていた。
「先生!」
この一年間、行き先を失っていた10歳の私を快く雇い入れ、医学の実技を一から叩き込んでくれた恩人。
彼が持つ長年の深い知見と、毎日ひっきりなしに訪れるたくさんの患者。その「本物の現場」に身を置いたことで、私の才能は爆発的な進化を遂げ、念願だった生きた臨床経験を瞬く間に吸収していったのだ。
「今や村中がお前のことを『聖女様』だと崇めてそうじゃないか。その素晴らしい活躍ぶり、師として私も鼻が高いよ」
「せ、聖女だなんて、先生も皆さんも大袈裟です! 私は先生に習ったことを、ただ実直にこなしているだけですから」
村に流れているとんでもない噂に、私は顔を赤くして照れていた。
あの伯爵家で「無能のクズ」「卑怯者」とまで罵られ、逃げ出してきた自分が、これほど誰かに必要とされ、高く評価される日が来るなんて――。
「ははは、相変わらず謙遜ですな。さて、聖女様。いつものように、明日は『リーヴェル騎士団』の演習への帯同遠征ですよ。何があってもいいように、しっかり準備をしてください」
「はい! 必要になりそうな強心剤や止血帯の荷物はすでにまとめてありますが、もう一度、念のために確認をしておきますね」
テキパキと準備を始める私の胸は、かつてないほどの幸福感と、心地よい高揚感で満たされていた。
毎日が泥にまみれ、汗を流す平民の暮らし。けれど、そこには偽りのない笑顔と、確かな救いがあった。
自分の知識が、自分の両手が、本当に目の前の人の命を救っている。
医者として一から叩き上げられた、この最高に充実した日々。
私は、あの冷酷な家を飛び出したことを――ただの1ミリも後悔してはいなかった。




