虚飾の剥落、凍りつく羨望
私がグレインフィール伯爵邸から姿を消して、一年の月日が流れた。
私が残した薬草事業の手柄を完全に横取りし、「稀代の才女」として社交界に名が売れ始めたエリシアに強い興味を抱いたヴァルツァー侯爵家の要望により、ついに初の顔合わせが執り行われることとなった。
期待と羨望の眼差しを向ける侯爵夫妻を迎え、伯爵邸のサロンは異様な緊張感に包まれていた。
「お久しぶりです、グレインフィール伯爵。そして初めまして、ご令嬢。 侯爵家嫡男のレオンハルトと申します」
極上のシルクのようなシルバーグレーに、すべてを見透かすような知性を湛えたゴールデンアンバーの瞳。
15歳となった青年は、今や父・アルベルトの背中を追い、医師としての卓越した才能を発揮して多くの医療事業を任される立派な跡取りへと成長していた。
その洗練された美貌と佇まいに、11歳のエリシアはうっとりと頬を染め、完璧な淑女を気取ってスカートの裾を持ち上げた。
「はじめまして、レオンハルト様。エリシア・グレインフィールですわ」
その瞬間、サロンの空気がピキリと凍りついた。
初対面の、それも格上の侯爵家嫡男に対し、婚約も内定していない段階でいきなりファーストネームで親しげに呼ぶという致命的なマナー違反。
当事者であるレオンハルトは微かに眉をひそめ、一瞬だけ硬直したが、すぐに完璧な大人の愛想笑いを浮かべて見せた。恐ろしいことに、我が世の春を謳歌している伯爵夫妻もエリシア本人も、この重大な失態にすら気づかず満足げに微笑み合っている。
両家の親同士が、気安く名を呼び合うほどの親交を築いている
――その事実が、彼らの判断を決定的に鈍らせていた。
グレインフィール家の面々は、それを「同等の親しさ」と都合よく解釈しているのだ。
本来であれば厳然と存在するはずの身分差も、礼節も、すべてを曖昧にしたまま、娘の無礼さえも「許される親しさ」だと信じ込んでいる。
レオンハルトの怜悧な瞳から、早くも「期待」の光がスッと消え失せた。
「ロベルト、ところで、もう一人のお嬢さんはどうしたのかね?」
アルベルトの当然の疑問に、父・ロベルトは冷や汗を流しながら茶を濁した。
「じ、実は昨日から体調を崩しておりまして……せっかくの不調、不調法をお許しください。何分、昔から出来が悪く、身体も弱い子でしてな。お恥ずかしい限りです」
「ほう、ならば私が直々に診てあげよう」
「その必要はございませんッ!」
アルベルトの純粋な親切心からの提案を、ロベルトは遮るように拒絶した。アリアがとっくに失踪していることなど、絶対に知られるわけにはいかないからだ。
「ただの風邪ですし、もう処置も済んでおります。回復にも時間がかかる育ちの悪い娘ですので、どうかお気になさらず。それよりも、我が家の誇る才女、エリシアのお話を……!」
必死に話題を逸らそうとするロベルトに、アルベルトは「……そうですか」とだけ不自然そうに呟き、それ以上は追及しなかった。だが、侯爵夫妻の目には、明らかに伯爵家への「不信感」が芽生え始めていた。
その後、父親たちの主導で薬草事業を中心に医療の対話が交わされたが、当然、その矛先は「論文の執筆者」とされるエリシアへと向けられた。
「エリシア嬢、あの薬草の発見と精製法は、医師である私にとっても実に奇跡的な発想でした。……どうやってあの独創的な着眼点に至ったのですか?」
アルベルトが身を乗り出して尋ねる。
エリシアは論文の内容を丸暗記してきてはいたものの、表面的ななぞりに過ぎない。突っ込んだ専門知識を聞かれた途端、肝心な部分が何も答えられなくなった。
「ええと……それは、突然ひらめきましたの」
「ひらめいた? では、あの成分の配合比率の根拠はどこから?」
今度はレオンハルトが、鋭い医師の目で淡々と質問を重ねる。
「……っ、もちろん、患者様の体のことを第一に考えて、何度も、その……実験をいたしましたわ」
「どのような実験を? どの系統の医学書を参考にしたのですか? 今はどのような分野の研究を?」
「それは……まだまだ勉強中ですので……これからの、お楽しみということで……」
エリシアの口から出るのは、中身のすっからかんな、具体性を欠いた誤魔化しの言葉ばかり。
最初は期待の目を向けていたレオンハルトだったが、彼女が質問されるたびに目を泳がせ、曖昧な返事しかできない様子を見るうちに、完全に「落胆」へと表情を変えた。
(……噂ほどの才女というのは、この程度か。丸暗記した他人の知識を喋っているような違和感しかないな)
そう見限ったレオンハルトは、お茶会の後半、エリシアに視線を向けることすらやめ、まるで退屈な窓の外の景色でも眺めるように、完全に彼女への関心を失ってしまった。
初めての顔合わせは形式上、無事に終了した。しかし、肝心の婚約の内定は勝ち取れず、完全に先延ばしにされてしまった。
それどころか、社交界ではすぐに「ヴァルツァー侯爵家は、レオンハルトの新しい婚約者候補を別で探しているらしい」という噂が専ら囁かれるようになった。
侯爵家からの関心が急速に冷え込んでいくのを感じ、血の気が引いたのはグレインフィール側だった。
アリアという邪魔者を追い出して勝ち誇っていたはずのエリシア、グレイスに、今度は「偽りの栄光」という名の縄が、じわじわと自分たちの首を絞め始めたのだ。
「エリシア!! すぐに次の論文を書け! 薬草事業を超える画期的な成果を出し、侯爵令息様の心を繋ぎ止めるんだ! グズグズするな!」
邸に戻るなり、ロベルトはエリシアに激しい怒声を浴びせかけた。
一度「天才」として祭り上げてしまった以上、両親はエリシアに、薬草事業以上の才能を求め続ける。それができなければ、再びエリシアがあの地下室へ叩き込まれる番なのだ。
(嘘……どうしよう、このままじゃマズいわ……!!)
恐怖に駆られたエリシアは、必死になって家庭教師のグレイスを呼び出し、夜通し机に向かった。
しかし、元々頭脳が凡庸なエリシアと、アリアの才能に嫉妬するほどの無能なグレイスの二人に、新しい論文など書けるはずがなかった。ひねり出した文章は、才女の看板を掲げるまでには至らない。
「エリシア嬢、これでは駄目です! こんな頓珍漢な内容では、ヴァルツァー様に提出した瞬間に、これまでの論文も偽物だとバレてしまいます!」
「うるさいわね! 先生が何とかしなさいよ! 私はあの論文を書いた天才令嬢なのよ!?」
夜の自室で、互いに責任を擦り付け合い、醜く怒鳴り合うエリシアとグレイス。
真実を隠すために私を泥棒に仕立て上げた代償は、あまりにも重かった。
アリアという「本物の泉」を自らの手で枯らした泥棒たちは、今、自分たちが吐いた嘘の重さに押し潰され、破滅へのカウントダウンを狂ったように刻み始めていた。




