切り捨て――政治家の娘の最後通牒
障子の向こうに、庭の池の水音が、かすかに聞こえていた。畳の藺草の匂いが、部屋の空気の中に、薄く、漂っていた。
灰谷透真は、畳の上に正座していた。正座の姿勢は、かつての灰谷なら三十分と持たない姿勢だった。今は、安藤の体幹と瀬川の身体感覚が、重心を自動で補正していた。補正された体は微動だにしなかった。微動だにしない体の中で、灰谷の心臓だけが、速く、打っていた。
障子が開いた。
三条院麗華が、入ってきた。黒いワンピースに、パールの一連ネックレス。香水の匂いは、初めてこの場所で会った時と、同じものだった。
「久しぶりね、灰谷さん」
麗華の声は、穏やかだった。穏やかさの裏に、結論がすでに出ている人間の冷たさがあった。
「連絡が取れなかった」
「ええ。取れないようにしていたから」
麗華は、灰谷の正面に座った。座った姿勢は、政治家の娘の姿勢だった。背筋が伸びていて、膝が揃っていた。
「灰谷さん。あなたの周りで起きていることは、もう政治では守れない」
「守ってくれとは言っていない」
「言わなくても、同じことよ。あなたが翠雲荘で会った人間のうち、四人が、あなたとの接触後に能力を失っている。元官僚の判断力。秘書官の記憶力。財界人の交渉力。そして一人は、名前を出す気にもなれない」
灰谷の中の三条院の交渉力が、反射的に動いた。動いた交渉力が、麗華の言葉の裏にある恐怖を計算し、恐怖の隙を探した。
「麗華さん。あなたが持っている情報は、週刊誌の記事がベースだ。証拠は何もない。今ここで関係を切る理由は、どこにもない」
灰谷の声は、低く、説得力があった。説得力は、三条院の交渉術そのものだった。
麗華の目が、一瞬だけ、細くなった。
「灰谷さん。今のあなたの話し方、気づいている?」
「何のことだ」
「あなたの交渉術は、誰か別の人のものに聞こえる」
灰谷の口が、閉じた。
閉じた口の中で、三条院の交渉力が、凍りついた。凍りついた理由は、麗華の言葉が正確だったからだった。麗華は異能を知らない。知らないまま、直感で、灰谷の中にある他者の痕跡を感じ取っていた。
「私の父の交渉の仕方に、少し似ているのよ。でも父は父の人生で、あの話し方を身につけた。あなたは、どこでそれを覚えたの」
灰谷は、答えなかった。答える言葉が、灰谷透真の中に、なかった。答えようとすると、三条院の交渉力が先に動いて、別の言い回しを用意した。用意された言い回しもまた、三条院のものだった。
麗華は、立ち上がった。
麗華は、テーブルの上に、白い封筒を一つ、置いた。封筒の中身は、灰谷との過去の接待記録の最終コピーだった。
「これで、あなたと私の関係を証明するものは、何も残らない。もう消去済みよ」
灰谷の中の久我山の経営判断力が、封筒の意味を即座に計算した。三条院家は灰谷との関係を、物理的に抹消しようとしていた。記録がなければ、接点がなかったことになる。
「麗華さん。あなたにとって、俺は最初から駒だったのか」
「そうよ。でも、駒にしては大きくなりすぎた。大きくなりすぎた駒は、盤上から外すしかない」
麗華の目が、灰谷を見た。見た目の中に、初めて会った時の好奇心は、もうなかった。あったのは、政治家の血が計算した、損切りの冷徹さだけだった。
「さようなら、灰谷さん。もう会うことはないと思う」
麗華のヒールが、畳の上を、踏んだ。踏んだ音は、柔らかかった。柔らかい音が、廊下に遠ざかり、消えた。消えるまでの十秒間、灰谷は、動けなかった。
動けなかった理由は、麗華の言葉に衝撃を受けたからではなかった。麗華が去った瞬間に、灰谷の中の三条院の交渉力が、急に力を失ったからだった。交渉力は、交渉相手がいなくなると、何の役にも立たなかった。
◇
麗華が去った個室に、灰谷は、一人で残った。
部屋の奥の壁に、能面が掛けられていた。般若の面だった。般若の目が、灰谷を、見下ろしていた。
灰谷は、立ち上がった。立ち上がった体で、能面の前に行った。能面を手に取った。手に取った能面は、木の乾いた肌触りだった。
灰谷は、能面を自分の顔に当てた。
面の裏側は、冷たかった。冷たさが、額と頬に、密着した。密着した冷たさが、心地よかった。
心地よいと感じた瞬間に、灰谷の中で、何かが軋んだ。軋んだのは、灰谷透真の残骸だった。能面をかぶって心地よいと感じる人間は、自分の顔を失いかけている人間だった。
能面の裏側から見た部屋は、暗かった。面の目の穴から見える範囲は狭く、視界の端が切り取られていた。切り取られた視界の中に、庭の水音だけが聞こえていた。
灰谷は、三十秒間、能面をかぶっていた。三十秒の間に、灰谷の中の才能たちが、面の裏側の暗闇の中で、静かになった。面をかぶっている間は、鏡がなかった。鏡がなければ、自分の顔を確認する必要がなかった。確認しなければ、自分が誰であるかという問いから、逃れることができた。
灰谷は、能面を外した。外した能面を壁に戻した。戻す時に、般若の目と、灰谷の目が、一瞬だけ合った。般若の目は空洞だった。空洞の目が、灰谷の目を映していた。
◇
翠雲荘の玄関で、灰谷は靴を履いた。
靴を履きながら、スマートフォンを見た。画面に、通知が一件、表示されていた。
朝比奈沙月からのメッセージだった。
メッセージの本文は、一行だった。
「透真くん。元気ですか。少し心配しています」
灰谷の目が、画面の上で、止まった。止まった目の中で、複数の才能が、一瞬だけ、黙った。黙った隙間に、灰谷透真自身の感情が、わずかに、顔を出した。
感情の名前は、灰谷にはわからなかった。暖かいものだった。暖かいものが、喉の奥で、詰まった。
灰谷は、返信を打とうとした。打とうとした指が、画面の上で、止まった。止まった指の先に、何を書けばいいのかが、浮かばなかった。
「元気だ」と書こうとした。嘘だった。
「心配するな」と書こうとした。これも嘘だった。
灰谷は、スマートフォンをポケットにしまった。しまった後、玄関の外に出た。
外の空気は、冬の東京の空気だった。冷たい空気が、灰谷の顔に当たった。当たった空気の中に、能面の裏側の冷たさの記憶が、まだ残っていた。
灰谷は、通りに出て、タクシーを止めた。タクシーの後部座席に座った後、もう一度、スマートフォンを出した。朝比奈のメッセージを、もう一度、見た。
「透真くん」の三文字を見ている間だけ、灰谷の中の才能たちは、静かだった。静かな時間は、五秒で終わった。五秒後に、宮園の思考力が、「返信は不要だ。リスクが高い」と計算した。
灰谷は、画面を閉じた。閉じた画面が暗くなった。暗くなった画面に、灰谷の顔が映った。映った顔は、翠雲荘の能面の裏側で見た暗闘と同じだった。
タクシーの窓の外を、赤坂の街が流れていた。流れていく街の中に、三条院議員事務所のビルが見えた。ビルの窓には灯りがついていた。灯りの向こうに、麗華がいるのかもしれなかった。いても、もう関係なかった。
灰谷は、タクシーの座席に深く体を沈めた。沈めた体の中で、十五の才能が、それぞれの方向に、引っ張り合っていた。引っ張り合いの中心に、灰谷透真の居場所は、もう、なかった。




