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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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追い詰められた獣

 秘書の手に、A4の封筒があった。封筒の中身は、人事委員会の非公式議事録だった。議事録は本来、灰谷に見せるべき文書ではなかった。秘書が灰谷に忠実だったのは、灰谷の中の本郷の営業力が、秘書の信頼を勝ち取っていたからだった。


 議事録の三ページ目に、灰谷の名前があった。


 「戦略室長・灰谷透真の処遇について、非公式に検討を開始する」。


 処遇という言葉は、解任という意味だった。


 灰谷は、議事録を読み終えた後、デスクの引き出しにしまった。しまった動作は、冷静だった。冷静さは、久我山の経営者としての胆力だった。灰谷自身の感情は、冷静さの裏側で、焼けるように熱かった。


 熱い感情の中で、灰谷の頭の中が、回転し始めた。回転しているのは、宮園の思考力だった。思考力が、盤面を読んでいた。盤面の上には、灰谷を取り囲む駒が、すべて敵に回っていた。メディア、警察、政界、社内。四方向からの包囲。


 包囲を突破するには、新しい手駒が必要だった。


 手駒。才能。力。


 何かを奪えば、状況は変わる。変わるはずだった。これまで、常に、そうだった。本郷の営業力を奪って昇進した。瀬川の身体能力を奪って存在感を得た。久我山の経営力を奪って頂点に立った。奪うたびに、世界は灰谷に道を開いた。


 奪え。もっと奪え。


 灰谷の頭の中で、一つの名前が浮かんだ。


 鶴見和彦。久我山グループの顧問弁護士。六十二歳。東大法学部首席卒業。元検事。弁護士歴三十年。日本の企業法務の第一人者。


 法務能力。メディアの攻撃をかわし、訴訟で反撃し、刑事捜査の手続きの隙を突くための知識。今の灰谷に最も必要な才能だった。必要だと判断したのは、灰谷ではなかった。宮園の思考力と久我山の経営判断力が、同時に同じ結論を出した。二つの才能が一致することは珍しかった。一致したことが、灰谷の足を動かした。



  ◇



 午後二時。本社ビルの会議室棟の廊下。


 灰谷は、鶴見弁護士が小会議室を出るタイミングを、待っていた。待っている間、廊下の窓から見えるビル群が、二度、歪んだ。歪みは視覚の副作用だった。歪みの頻度が、先週より増えていた。


 鶴見が小会議室のドアを開けて出てきた。白髪まじりの頭に、濃紺のスーツ。革靴の匂いが、廊下に微かに漂った。


「鶴見先生。少しお時間をいただけますか」


「灰谷室長。何でしょう」


 灰谷は、鶴見を小会議室の中に誘導した。誘導の動きは自然だった。鶴見は疑わなかった。疑わなかったのは、灰谷の中の久我山のカリスマ性が、信頼を纏わせていたからだった。


 小会議室のドアが閉まった。


「先生、最近の報道について、法的な見解を伺いたいのですが」


 灰谷は、右手を差し出した。


 鶴見は、差し出された手を見て、一瞬だけ間を置いた。一瞬の間に、灰谷の指先が、微かに震えた。震えは、才能略奪の前兆動作だった。


 鶴見は、灰谷の手を握った。


 握った瞬間に、灰谷の手のひらの器が、開いた。


 鶴見の法務能力が、灰谷の中に、流れ込んだ。流れ込む速度は、これまでの才能略奪の中で、最も遅かった。遅かったのは、器がすでに限界に近かったからだった。限界に近い器に、新しい才能が、押し込まれた。


 押し込まれた瞬間に、灰谷の脳内で、複数の才能が一斉に発火した。


 法律の条文が展開された。展開された条文の行間に、将棋の棋譜が挟まった。棋譜の駒が五線譜に変わった。五線譜の上をサッカーボールが転がった。ボールが水面に落ちた。水面の下で、久我山の声が「撤退しろ」と叫んだ。


 灰谷の体が、痙攣した。


 痙攣は、三秒間、続いた。三秒間の間に、灰谷は意識を失った。失った意識の底で、灰谷の名前が消えた。消えた名前の代わりに、十五人分の名前が、同時に、浮かんだ。


 四秒目に、意識が戻った。


 戻った意識は、灰谷透真のものかどうか、わからなかった。意識の中に、十六人分の記憶が、同時に存在していた。十六人の記憶が、一つの脳の中で、居場所を奪い合っていた。


 灰谷は床に倒れていた。鶴見も床に倒れていた。鶴見の目は開いていたが、瞳孔が散大していた。灰谷の鼻から、血が流れていた。血が唇を伝って、顎から落ちた。落ちた血がワイシャツの襟を汚した。


 灰谷は、鶴見の脈を確認した。脈はあった。鶴見は気を失っているだけだった。気を失っている鶴見の顔は、十歳、老けて見えた。


 灰谷は立ち上がった。立ち上がった足が震えた。震えている足で、小会議室を出ようとして、ドアノブを掴んだ。掴んだ右手が、ドアノブの上で、ピアノの運指を刻んだ。刻んでいる指を、灰谷は、左手で握って止めた。止めた左手の中で、右手の指が、三秒間、暴れた。


 三秒後に、指は止まった。止まった指でドアノブを回して、廊下に出た。


 廊下で、総務部の社員とすれ違った。社員が灰谷の鼻血を見て、「大丈夫ですか」と声をかけた。


「大丈夫だ。鶴見先生が体調を崩された。誰か呼んでやってくれ」


 灰谷の声は、平静だった。平静さは、もう、灰谷のものではなかった。灰谷は廊下を歩きながら、鶴見から奪った法律知識が頭の中で展開されていくのを感じていた。展開される知識は膨大だった。三十年分の実務経験と、数千件の判例が、一秒ごとに整理されていった。整理される速度に、脳が追いついていなかった。追いつかない脳の中で、宮園の思考力が、法律知識を将棋の定跡のように分類し始めた。分類は効率的だった。効率的であることが、異常だった。



  ◇



 本社ビルのトイレの鏡の前で、灰谷は、鼻血を洗った。


 水が赤く染まって、排水口に流れていった。流れていく赤い水を見ながら、灰谷の頭の中で、鶴見の法律知識が、整理され始めていた。刑法、民法、会社法、金融商品取引法。条文の番号と判例が、自動的に分類されていた。


 分類が終わった瞬間に、灰谷は顔を上げた。上げた顔が鏡に映った。


 鏡の中の顔は、灰谷透真の顔ではなかった。


 一瞬だけ、久我山悟の顔が、映っていた。禿頭に鋭い眼光。低い声が似合う、年商三千億の男の顔。


 灰谷は、目を閉じた。閉じて、開いた。開いた鏡の中に、灰谷の顔が戻っていた。戻っていたが、灰谷の中の何かが、鏡の中の顔を、自分のものだと認識できなかった。


 認識できない時間は、三秒だった。三秒後に、久我山の経営判断力が、「お前は灰谷透真だ」と計算した。計算結果を受け入れた。受け入れたのは、灰谷透真の認識ではなかった。久我山の判断だった。


 他人の才能に、自分の名前を教えてもらう。


 この状態が異常であることを、灰谷は、もう知る機能を持っていなかった。


 蛍光灯の白い光が、トイレの壁のタイルに反射していた。反射した光の中で、灰谷は、手を洗った。手を洗う動作の中に、瀬川の水泳選手の手の動きが混じっていた。水を掬う形が、クロールのプルの形だった。


 灰谷は、トイレを出た。出た廊下の窓から、東京のビル群が見えた。ビル群の上に、冬の空が、灰色に広がっていた。灰色の空を見上げた灰谷の目の中で、複数の光が、明滅していた。明滅は、才能の干渉だった。干渉は、もう、止まらなかった。止まらない干渉の中で、鶴見の法律知識が、「黙秘権」の三文字を浮かべた。

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