老人の問い――器の底
渋谷のスクランブル交差点を、信号を無視して渡った。渡る灰谷の横を、酔った大学生のグループが通り過ぎた。大学生の笑い声が、灰谷の耳に届いた。笑い声は、灰谷の中の誰かの記憶を刺激した。刺激された記憶は、安藤のものだった。安藤の少年時代の、サッカーの試合後の仲間たちの笑い声だった。
灰谷の足が、笑い声に釣られて、一瞬だけ、止まった。止まった足が、また、歩き始めた。歩き始めた方向は、灰谷が決めたものではなかった。足が勝手に、知っている道を歩いていた。
知っている道は、かつての通勤路だった。埼玉の安アパートから、中堅メーカーの本社がある新宿まで、毎日歩いた道だった。灰谷の足は、乗換駅の改札を通り、ホームへの階段を下りた。
深夜一時のホームに、人はいなかった。
終電はとうに終わっていた。改札は無人だった。灰谷は改札をすり抜けて、ホームに立った。ホームの蛍光灯が、白い光を落としていた。光の中に、灰谷の影が、一つだけ、伸びていた。
線路を見下ろした。
線路の上に、バラスト石が敷き詰められていた。石の間に、枯れた雑草が生えていた。線路の金属が、蛍光灯の光を反射して、鈍く、光っていた。
この景色を、灰谷は知っていた。
第一話の夜。全てが始まる前の夜。何者でもない灰谷透真が、深夜のホームから線路を見下ろして、生きることへの執着を測っていた夜。あの夜の自分には、失うものが何もなかった。何もなかったから、線路に降りることも、降りないことも、同じ重さだった。
今は、違った。今の灰谷には、十六人分の才能があった。経営力があり、思考力があり、身体能力があり、音楽の才能があり、法律の知識があった。失うものが多すぎた。多すぎるものを抱えた体では、手放すことが、できなかった。
手放せない。けれど抱え続ければ、体が壊れる。壊れることは、今日の発作で、わかっていた。鶴見の法務能力を奪った時の痙攣は、これまでで最も激しかった。次に奪えば、意識を失うだけでは済まないかもしれなかった。
灰谷は、ホームの柱にもたれた。もたれた背中が、コンクリートの冷たさを感じた。冷たさの中で、灰谷の右手が、膝の上で、微かに震えていた。震えは、才能の干渉ではなかった。灰谷透真自身の、恐怖だった。
◇
ホームのベンチの端に、人が座っていた。
灰谷は、最初、気づかなかった。気づかなかったのは、その人物が、あまりにも静かに座っていたからだった。空気の一部のように、そこにいた。
老人だった。
灰谷は、老人の顔を見た。見た瞬間に、全身の才能が、一斉に黙った。黙り方は、これまでにないものだった。十六の才能が、同時に、沈黙した。沈黙の中に、灰谷透真だけが、残された。
「ずいぶん重そうだな」
老人が言った。老人の声は、どこから来るのかわからなかった。ホームの壁に反響して、上から降ってくるように聞こえた。
「あなたは」
灰谷の声が、震えた。震えたのは、灰谷透真の声だった。才能の誰の声でもない、灰谷自身の、かつての弱い声だった。
「あなたは何者だ。なぜ俺にこの力を与えた」
老人は、微笑んだ。微笑みは穏やかだった。穏やかさの中に、悲しみが混じっていた。
「与えたのではない。お前の中にあったものを、目覚めさせただけだ」
「嘘だ。俺には何もなかった」
「何もなかったからこそ、器になれた。空の器だけが、何でも受け入れることができる」
老人は、灰谷を見た。見た目の中に、最初に会った時と同じ深さがあった。深さの底に、何かが沈んでいた。
「お前が奪い続けるなら、最後には何が残る」
「全てだ」
灰谷は、即答した。即答した声は、久我山の声に似ていた。似ていることに、灰谷は気づかなかった。
「全てが残る。俺は全てを手に入れた。営業力も、身体能力も、思考力も、経営力も、交渉力も。俺は何者でもなかった男が、全てを持つ男になった」
老人は、首を横に振った。振り方は、ゆっくりだった。
「器が空だからこそ何でも入った。だが器を壊すほど入れたら、残るのは破片だけだ」
灰谷の口が、閉じた。
破片。という言葉が、灰谷の中の全ての才能を貫通した。貫通した言葉の先に、灰谷透真の記憶が、一瞬だけ、見えた。埼玉のワンルーム。安い蛍光灯。何者でもない男の顔。
見えた記憶は、すぐに消えた。消えた後に、残ったのは、十六人分の才能の残響だけだった。
老人の顔に、初めて、悲しみが浮かんだ。悲しみは、深い場所から来ていた。
「まだ間に合う」
老人は囁いた。囁きは、蛍光灯の唸りの中に消えた。消えた後に、老人の姿も消えていた。ベンチの上には、老人が座っていた痕跡だけが、微かに温かい空気として、残っていた。
◇
灰谷は、ホームに一人で立っていた。
老人の言葉が、頭の中で反響していた。反響する言葉の隙間に、才能たちが、また動き始めた。動き始めた才能たちが、老人の言葉を分析しようとした。宮園の思考力が「論理的に意味がない」と言い、久我山の経営判断力が「無視しろ」と言った。
灰谷は、ホームの端に立った。立った足元の白線を見下ろした。白線は黄色かった。黄色い線の内側に立つこと。それが、社会のルールだった。ルールの外側に、線路があった。線路は空だった。空の線路が、灰谷を見上げていた。
空の線路を見ていた灰谷の視線が、対面ホームに移った。
対面ホームに、人影があった。
人影は、大きかった。大きい体格の中に、かつてのアスリートの名残りがあった。名残りの中から、水の色のない目が、灰谷を見ていた。
瀬川陽人だった。
瀬川は、対面ホームの端に、立っていた。立っている姿勢は、飛び込み台の上の姿勢に似ていた。両足を揃えて、背筋を伸ばして、前を見ていた。前にいるのは、灰谷だった。
灰谷の中の瀬川の才能が、また、帰巣しようとした。帰巣の振動が、手のひらの器を揺さぶった。揺さぶられた器の中で、他の全ての才能も、連鎖的に暴れた。
灰谷の喉が、乾いた。乾いた喉の中で、声にならない声が出た。声の中身は、「来るな」だった。来るな。近づくな。お前が近づくと、器が壊れる。
灰谷は、ホームから逃げた。
逃げる足は、安藤の運動能力で、階段を一段飛ばしで駆け上がった。駆け上がった背中に、瀬川の視線が、突き刺さっていた。視線は、線路を挟んだ距離を、何の障害もなく、灰谷の背中に届いていた。
改札を抜けて、駅の外に出た。外の空気は冷たかった。冷たい空気の中で、灰谷は膝に手をついて、呼吸を整えた。整えた呼吸の中に、瀬川の水泳のリズムが混じっていた。混じったリズムが、灰谷の体を、内側から揺さぶった。
老人の言葉が、再び、響いた。
器を壊すほど入れたら、残るのは破片だけだ。
灰谷は、駅の外の暗い道を、歩き始めた。歩く方向は、タワーマンションの方向だった。歩きながら、灰谷は、自分の中にある全ての才能を数えた。数えた数字は、十六だった。十六の才能と、一つの器。器は、確かに、軋んでいた。軋みの音は、灰谷にしか聞こえなかった。聞こえる音は、陶器にひびが入る音に似ていた。




