復讐者たちの攻勢
テーブルの上に、灰谷の行動マップが広げられていた。マップの上に、赤いマーカーで、灰谷の移動パターンが書き込まれていた。書き込みの大部分は、氷室から提供された情報だった。
織部が、マップの上に指を置いた。指は細かった。かつてヴァイオリンの弓を持っていた指だった。今は弓を持てない指が、灰谷の行動を追っていた。
「三段階で行く」
織部の声は、静かだった。静かな声の中に、弦を弾く時の精度があった。
「第一段階。社会的包囲。黒田さんの記事に連動して、私たちが実名で記者会見を開く。Loss症候群が特定の人物との接触で発生していることを、被害者自身が証言する」
安藤圭吾が腕を組んだ。組んだ腕の筋肉は、以前の半分の太さだった。
「実名か。俺は構わない。もう失うものはない」
「第二段階」
織部は、マップの上に二つ目の指を置いた。
「灰谷が最近も才能略奪を行っている証拠を掴む。安藤さん、久我山グループの取引先を経由して、社内の情報を探ってほしい」
「何を探る」
「顧問弁護士の鶴見和彦が、先週から突然、法律文書の作成に支障をきたしている。灰谷との接触記録と照合すれば、新たな被害者として立証できる」
安藤は頷いた。頷く動作の中に、かつてのアスリートの機敏さは残っていなかった。
「第三段階」
織部は、三本目の指を置いた。置いた指が、灰谷のタワーマンションの位置を押さえた。
「瀬川さんが単独で灰谷に接触する。心理的圧迫を最大化する」
部屋の空気が、変わった。
瀬川陽人は、窓際の壁にもたれて立っていた。立っている姿勢は、飛び込み台の上の姿勢だった。瀬川の目が、織部を見た。見た目の中に、同意があった。
◇
都内のホテルの会議室で、記者会見の準備が行われていた。
白いテーブルクロスの上に、マイクが三本、並んでいた。マイクの前に、名札が置かれていた。名札には、安藤圭吾、宮園春人、織部千景の名前が印字されていた。
宮園春人が、椅子に座っていた。座っている姿勢は、将棋盤の前に座る姿勢と同じだった。けれど、目の中に、かつての棋士の鋭さはなかった。目は穏やかだったが、穏やかさの奥に、諦めに似た覚悟があった。
安藤が、名札を見つめていた。見つめている目の中に、覚悟があった。覚悟の隣に、恐怖があった。実名を出せば、灰谷の報復があるかもしれなかった。報復の可能性を知った上で、安藤はここにいた。かつてサッカーのピッチに立った時と同じだった。怖くても、逃げない。それが、安藤圭吾の中に残った、唯一のものだった。
「瀬川は出ないのか」
安藤が聞いた。
「瀬川さんは第三段階に温存する。記者会見で灰谷の名前を出すかどうかは、真壁さんの判断を待つ」
織部が答えた。答えた声は冷静だった。冷静さの裏に、ヴァイオリンを弾けなくなってからの日々の怒りが、圧縮されていた。
宮園が口を開いた。
「記者会見で、僕は何を話せばいいですか」
「宮園くんは、七冠目前から才能を失った経緯を、自分の言葉で話してほしい。感情的になる必要はない。事実だけでいい。事実が一番重い」
宮園は頷いた。頷く動作は、かつて対局で指を差す動作に似ていた。一手を決める時の、静かな確認だった。
◇
特殊対策室で、真壁蓮司は電話を受けていた。
電話の相手は、瀬川だった。
「真壁さん。記者会見で灰谷の名前を出す。もう待てない」
「今出せば名誉毀損で逆に訴えられる。証拠が足りない」
「証拠なら、灰谷が鶴見弁護士から才能を奪った。織部の調べで、鶴見が灰谷と握手した翌日から法律文書を書けなくなっている」
「状況証拠だ。物的証拠ではない」
電話の向こうで、瀬川の呼吸が、深くなった。深い呼吸の中に、水泳選手のリズムがあった。リズムの中に、かつてのレースの集中力が凝縮されていた。
「法で裁けないなら、世論で裁く」
「世論は法じゃない。世論で裁いた後に、法廷で負ければ、全てが無駄になる」
真壁の声は低かった。低い声の中に、刑事としての信念があった。信念の横に、瀬川の怒りの正当性を認める感情があった。二つが引き裂くように対立していた。
「記者会見は開いていい。だが灰谷の名前は伏せろ。『特定の人物』とだけ言え。名前を出すのは、逮捕状が出た後だ」
瀬川は、五秒間、黙った。五秒後に答えた。
「わかった。名前は伏せる。だが、第三段階は止めない」
「第三段階とは何だ」
「俺が灰谷に会う」
真壁の手が、受話器を握り締めた。握り締めた手の中で、七年前の手帳の記憶が、疼いた。
「法の枠の中でやれ。それが条件だ」
「条件は承知している」
電話が切れた。切れた電話の受話器を置いた真壁の目が、デスクの上のメモを見た。メモには、「殺意はあるか」と書かれていた。メモの答えは、まだ書かれていなかった。
◇
その夜、織部のマンションに、瀬川が残っていた。
他のメンバーは帰った後だった。リビングのテーブルの上に、コーヒーカップが二つ、残っていた。
織部が言った。
「記者会見の後、灰谷は追い詰められる。追い詰められた灰谷が、何をするかわからない」
「何もできない。灰谷は、もう、壊れかけている」
瀬川の声は、確信に満ちていた。確信の根拠は、先夜の駅のホームでの灰谷の顔だった。灰谷の目の中に、瀬川は見ていた。十六人分の光が、一つの虹彩の中で暴れているのを。
「壊れかけている人間は、一番危険でもある」
織部は、コーヒーカップを両手で包んだ。包んだ手の指が、微かに震えていた。震えは、弓を持てなくなった指の震えだった。
「織部。俺が灰谷に会う時、お前は何をする」
「私は記者会見に出る。安藤さんと宮園くんと一緒に。瀬川さんの作戦が動く前に、世論の土台を作る」
瀬川は頷いた。頷いた後、立ち上がった。立ち上がった体は大きかったが、以前のような力強さはなかった。力強さの代わりに、削ぎ落とされた骨格の鋭さがあった。
「灰谷に会ったら、何を言う」
「何も言わない。ただ、見る。俺の才能を持っている男の顔を、至近距離で見る」
織部は、瀬川の目を見た。見た目の中にあるものを、織部は、読み取った。読み取った内容を、口には出さなかった。
瀬川が玄関に向かう背中を、織部は見送った。見送りながら、真壁がドアの外で足を止めた靴音を、思い出していた。真壁は、復讐者の会の行動を、全て把握しようとしていた。把握した上で、法の枠の中に留めようとしていた。
法の枠。
その枠が、瀬川を止められるかどうかを、織部は知らなかった。知らないまま、ドアが閉まった。
閉まったドアの向こうで、瀬川の足音が、階段を降りていった。足音は、一定のリズムだった。かつてのプールサイドを歩くリズムと、同じだった。
織部は、リビングの窓から、夜の街を見た。街の灯りの中に、瀬川の背中が見えた。背中は大きかったが、細くなっていた。細くなった背中が、夜の中に消えた。消えた後の窓に、織部の顔が映った。映った顔の目は、乾いていた。涙を流す代わりに、織部の目は、怒りを結晶させていた。




