証拠――氷室奏の最後のピース
六つの画面に、六つの映像が表示されていた。映像の全てに、灰谷透真が映っていた。帝国ホテルのフォーラムの監視カメラ。デザインカンファレンスの天井カメラ。翠雲荘の防犯カメラ。久我山グループ本社の廊下カメラ。三条院議員事務所のエントランスカメラ。そして、安藤が個人的に撮影したスマートフォン映像。
六つの映像の中で、氷室は一つの瞬間を探していた。
灰谷が誰かと握手する直前の、指先の動き。
氷室のマウスが、映像をコマ送りした。コマ送りの速度は、一秒あたり三十フレーム。三十フレームの一つ一つを、氷室の目が追っていた。
フォーラムの映像。灰谷が柏木と握手する四フレーム前。灰谷の右手の人差し指と中指が、〇・一三秒間、同期して震えていた。震えの振幅は二ミリ以下。肉眼では見えない。
氷室は、震えの波形を数値化した。数値化した波形をグラフに変換した。グラフの形は、正弦波に近かった。周期は〇・〇四秒。
次に、デザインカンファレンスの映像。灰谷が須藤に近づこうとして断念する直前の映像。灰谷の右手が、ポケットの中で動いていた。ポケットの布地の動きから、指の震えを逆算した。逆算した波形のグラフは、フォーラムの時と同じ周期だった。
〇・〇四秒。
氷室の呼吸が、浅くなった。
三番目の映像。翠雲荘の防犯カメラ。灰谷が桐生秘書官と握手する瞬間。握手の二フレーム前に、同じ指の震えが記録されていた。周期は〇・〇四秒。振幅は二ミリ以下。
四番目。五番目。六番目。全ての映像で、灰谷が対象者と接触する直前に、同じパターンの指の震えが発生していた。震えの周期は、全て〇・〇四秒。誤差は〇・〇〇二秒以内。
氷室は、キーボードを叩いた。叩くリズムは、かつて将棋の対局時計を押すリズムと同じだった。
画面に、統計分析の結果が表示された。六件の映像データにおける灰谷の指の震えパターンの一致率は、九十九・二パーセントだった。
偶然ではありえない数字だった。
氷室は、椅子の背もたれに体を預けた。預けた体の中で、心拍が上がっていた。心拍が上がる感覚は、かつて将棋の対局で詰みを読み切った瞬間と同じだった。あの感覚を、氷室は、灰谷に奪われたと思っていた。奪われたはずの感覚が、別の形で、戻っていた。
戻った感覚は、棋士の感覚ではなかった。分析者の感覚だった。新しい自分の才能だった。
◇
分析ルームのドアが開いて、真壁が入ってきた。
真壁の手には、コンビニの紙袋が下がっていた。紙袋の中に、おにぎりが二つとお茶のペットボトルが入っていた。
「氷室。何か見つけたか」
「見つけました」
氷室の声は、いつもの平坦な声だった。平坦な声の中に、微かな昂揚があった。昂揚を感じることができたのは、真壁だけだった。
「灰谷が対象者と接触する直前に、必ず、右手の指に特定のパターンの震えが発生しています。六件の映像で確認。一致率九十九・二パーセント。これは生理的な震えではありません。才能略奪の前兆動作です」
真壁は、氷室のモニターの前に立った。モニターの中で、灰谷の右手が、コマ送りで、震えていた。震えは微かだった。微かだったが、確かにそこにあった。
「これが物的証拠になるか」
「直接的な物的証拠ではありません。しかし、灰谷の行動パターンの異常性を、数値で証明できます。加えて」
氷室は、隣のモニターに切り替えた。切り替えたモニターに、時系列チャートが表示された。
「灰谷の指の震えが記録された日時と、各被害者の能力低下の発症日時を、分単位の精度で並べました。全件で、接触から発症までの時間差は十二時間から二十四時間の範囲に収まっています」
チャートの上に、赤い線と青い線が、平行に走っていた。赤い線は灰谷の接触記録。青い線は被害者の発症記録。二つの線は、一定の時間差を保って、完全に並走していた。
「朝比奈さんの手帳データ。藤堂資料。三条院記録。黒田の記事。被害者の証言。そして、この映像分析。全てが一つの結論を指しています」
氷室は、モニターから目を離して、真壁を見た。
「九割です。残りの一割は、灰谷本人の自白。あるいは、才能略奪の科学的メカニズムの解明です。しかし」
「科学的メカニズムの解明を待っていたら、永遠に逮捕できない」
「はい。現時点の証拠で、逮捕状を請求する十分な根拠があると考えます」
真壁は、紙袋からおにぎりを出して、一つを氷室のデスクに置いた。置いた後、自分のおにぎりの包装を剥がしながら言った。
「検察に行く。今日中に」
◇
午後三時。東京地方検察庁の協議室。
真壁と氷室は、検察官の前に座っていた。検察官は五十代の男で、眼鏡の奥の目が鋭かった。
テーブルの上に、真壁のチームが積み上げた証拠資料が並んでいた。資料の厚さは、十センチを超えていた。
「真壁さん。率直に聞く。握手で才能を奪うという行為を、何罪で立件するつもりですか」
「傷害罪です。被害者の能力を永久に喪失させた行為は、身体の機能を害する行為に該当します」
「能力の喪失が、身体の機能の障害と言えるかどうか。判例がない」
「判例がなければ、この事件が判例になります」
検察官のペンが、書類を叩いた。コツコツという音が、協議室の中に響いた。
「映像分析は説得力がある。時系列の一致も、状況証拠としては極めて強い。しかし」
「しかし、五分五分だとおっしゃるのでしょう」
「四分六分だ。裁判で勝てる保証はない」
真壁の声が、微かに震えた。震えは、怒りではなかった。覚悟だった。
「四割で十分です。逮捕状を出してください。灰谷を放置すれば、被害者はさらに増える。法的根拠が完璧でなくても、止めなければならない」
検察官は、三十秒間、黙った。三十秒後に、眼鏡を外して、レンズを拭いた。拭いた後で、眼鏡をかけ直した。
「逮捕状請求の書類を準備しなさい。私が審査する」
検察官の声は、低かった。低い声の中に、法律家としての賭けの覚悟が含まれていた。前例のない事件を、前例のない法理で裁く。検察官もまた、自分のキャリアを賭けようとしていた。
真壁は、頭を下げた。下げた頭の上で、協議室の蛍光灯が、白い光を落としていた。
◇
特殊対策室に戻った真壁は、逮捕状請求書類の作成に入った。
デスクの上にペンを置いた。ペンの横に、灰谷の写真が立てかけてあった。写真の中の灰谷の目を、真壁は見た。
灰谷の目の中に、複数の光が映っていた。光は、灰谷自身のものではなかった。奪った十六人分の才能の光だった。光の奥に、灰谷透真という男の本来の目が、もうほとんど見えなくなっていた。
真壁は、書類に署名した。署名するペンが紙の上を走る音が、静かな部屋の中に響いた。
氷室が、コーヒーを差し出した。真壁は受け取った。受け取ったコーヒーを一口飲んだ。いつもはブラックだった。今日のコーヒーには、砂糖が入っていた。
真壁は、氷室を見た。氷室は何も言わなかった。何も言わない顔の中に、かつての棋士の、対局後の静かな充実が、薄く、見えた。




