最後の略奪
セミナーの講師は、元警視庁の警察OBで、現在は危機管理コンサルタントとして活動している男だった。名前は、河野正志。六十歳。警視庁で三十年間、危機管理部門に在籍し、退職後にコンサルティング会社を設立した。
灰谷透真は、セミナーの最前列に座っていた。
座っている灰谷の体は、静かだった。静かな体の中で、十六の才能が、低い周波数で振動していた。振動は、昨夜からずっと続いていた。止まらない振動の中で、灰谷は、河野の講義を聞いていた。聞きながら、灰谷の目の下には、青黒い隈ができていた。昨夜、一睡もできなかった証拠だった。
講義の内容は、企業の危機管理対応だった。灰谷の中の鶴見の法律知識が、河野の講義内容を法的に検証していた。検証は自動的に行われていた。灰谷の意志とは関係なく、奪った才能が勝手に動いていた。
講義が終わった。
灰谷は、講師席に向かった。向かう足は安藤の運動能力で制御されていた。歩幅は正確で、姿勢は完璧だった。完璧な姿勢の中で、灰谷の手のひらの器が、すでに開き始めていた。
「河野先生。素晴らしい講義でした。名刺交換をさせていただけますか」
灰谷の声は、本郷の営業トーンだった。声に包まれた名刺を差し出す動作は、久我山のカリスマ性を纏っていた。
河野は、名刺を受け取り、自分の名刺を渡した。渡す際に、二人の指が触れた。
触れた瞬間に、器が全開した。
河野の危機管理能力が、灰谷の中に流入した。流入の速度は、鶴見の時よりもさらに遅かった。遅かったのは、器がもう限界を超えていたからだった。限界を超えた器に、十七番目の才能が、押し込まれた。
押し込まれた瞬間に、灰谷の脳内が、爆発した。
十七の才能が、一斉に、暴走した。
法律の条文が崩壊した。崩壊した条文の隙間から将棋の駒が飛び出した。駒がサッカーボールに変わった。ボールが水中に沈んだ。水中でヴァイオリンが鳴った。ヴァイオリンの弦が切れた。切れた弦が久我山の声で叫んだ。叫んだ声が交渉術の言葉に変わった。言葉が法律の条文に戻った。条文がまた崩壊した。
無限ループ。
灰谷の体が、セミナー会場の廊下で、崩れた。
崩れた体が、カーペットの上に倒れた。倒れた灰谷の目が、天井の蛍光灯を見上げた。蛍光灯の光が、七色に分裂した。分裂した光の中に、十七人分の記憶が、走馬灯のように流れた。
「大丈夫ですか」
セミナーの参加者が駆け寄った。声が歪んで聞こえた。歪みの中で、灰谷は、自分の名前を思い出そうとした。思い出せなかった。名前の代わりに、十七の名前が、同時に浮かんだ。
「救急車を呼びますか」
「いい。大丈夫だ」
灰谷の口が動いた。動いた口から出た声は、河野の声だった。河野の危機管理の判断が、「ここで救急車を呼べば記録に残る」と計算していた。
灰谷は立ち上がった。立ち上がるまでに、十五秒かかった。十五秒は、長かった。立ち上がった体の足元が、揺れた。揺れを、安藤の体幹が補正しようとした。補正は不完全だった。安藤の運動能力も、他の才能の暴走に巻き込まれて、正常に機能していなかった。
灰谷は、壁に手をつきながら、ホテルのロビーまで歩いた。歩く途中で、視界が二度、暗転した。暗転のたびに、灰谷の中の誰かの記憶が、フラッシュバックした。一度目は宮園の祖父の微笑み。二度目は織部がカーネギーホールで弾いたチャイコフスキーの旋律。どちらも、灰谷のものではない記憶だった。
◇
タクシーの中で、灰谷は、後部座席に横になっていた。横になっている体の中で、十七の才能が、まだ暴れていた。暴れ方は、これまでで最も激しかった。
視界が、三重に見えた。三重の視界の中に、三つの場所が同時に映っていた。タクシーの車内と、プールの水面と、将棋の対局室。三つの場所が重なって、どれが現実かわからなかった。
タワーマンションに着いた。
タクシーを降りる時、運転手に料金を払った。払う手が震えていた。震えている手から、財布が落ちた。落ちた財布を拾う動作の中に、安藤のアスリートの俊敏さは残っていなかった。俊敏さが暴走の中で機能停止していた。
エレベーターの中で、灰谷は壁にもたれた。もたれた壁が冷たかった。冷たさの中で、灰谷の名前が、また消えた。消えた名前を探した。探す場所がわからなかった。エレベーターの鏡に、灰谷の顔が映っていた。映った顔を見ても、誰だかわからなかった。わからない時間が、エレベーターが自室の階に着くまで、二十秒間、続いた。
部屋に入った。入った瞬間に、体が床に落ちた。落ちた体が、リビングのフローリングの上に、仰向けに転がった。フローリングの冷たさが、背中に染みた。
冷たい床の上で、灰谷は、天井を見た。天井は白かった。白い天井の上に、複数の記憶が映写された。映写された記憶の中に、灰谷透真の記憶は、もうなかった。
灰谷透真。
名前を口に出そうとした。出そうとした口が、「久我山」と言った。違う。「宮園」と言った。違う。「安藤」と言った。違う。「瀬川」と言った。違う。
全部違う。
全部違うのに、全部が自分だった。自分が十七人に分裂していた。分裂した十七人の中に、灰谷透真の居場所を探した。探した結果は、白紙だった。白紙の場所には、かつて灰谷透真がいた痕跡だけが、薄く残っていた。
床の上で、灰谷の手が、スマートフォンに触れた。触れたスマートフォンの画面が光った。光った画面に、通知が一件、表示されていた。
朝比奈沙月。
メッセージは二文字だった。
「会って」
灰谷の目が、二文字の上で、止まった。
止まった目の中で、十七の才能が、一瞬だけ、静かになった。静かになった隙間に、灰谷透真の記憶が、一つだけ、浮かんだ。
公園のベンチ。朝比奈が隣に座っている。朝比奈が笑っている。笑っている朝比奈の顔を見ている自分は、まだ何者でもなかった。何者でもなかったけれど、朝比奈の笑顔を見ている時だけ、それでもいいと思えた。
記憶は三秒で消えた。消えた後に、灰谷の指が、震えながら、返信を打った。
「明日、あの公園で」
送信ボタンを押した。押した指が、画面から離れた。離れた指の先が、また、ピアノの運指を刻み始めた。
刻み始めた指を、灰谷は、止めなかった。止める力が、もう、残っていなかった。
◇
返信を送った三分後に、インターホンが鳴った。
鳴った音は、部屋の中に、鋭く響いた。
灰谷は、床から起き上がった。起き上がった体で、インターホンのモニターを見た。
モニターに、一人の男の顔が映っていた。コートの襟を立てた男。鋭い目。四十代後半の、刑事の顔。
真壁蓮司だった。
灰谷の中の河野の危機管理能力が、即座に計算した。「ドアを開けるな。令状がなければ入れない」。同時に鶴見の法律知識が、「任意同行の要請なら拒否できる」と分析した。
灰谷は、モニターの中の真壁の目を、見た。真壁の目は、灰谷がこれまで見てきたどの人間の目とも、違っていた。違いの中身は、灰谷の中の全ての才能を使っても、分析できなかった。




