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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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二度目の先回り――新宿の罠

 真壁チームの二度目の先回りオペレーションだった。


 氷室の予測モデルの第二候補、建築家・須藤が登壇するカンファレンス。須藤は三十代後半の新進気鋭の建築家で、空間認識と構造計算を直感的に融合させる稀有な才能の持ち主だった。


 真壁は、会場の二階バルコニーから、一階のメインホールを見下ろしていた。インカムの左耳に、氷室の声が流れていた。


「灰谷、南側入口から入場しました。グレーのスーツ。一人です」


 真壁の目が、南側入口を捉えた。灰谷透真が、展示ホールの中を歩いていた。歩く灰谷の姿勢は、帝国ホテルのフォーラムの時とは、明らかに違っていた。肩が硬く、歩幅が狭い。首が微かに左右に動いている。視線が泳いでいる。


 極度に警戒している獣の歩き方だった。


 インカムから、織部の声が流れた。


「瀬川、配置についた?」


「着いた。一階のトイレ前。灰谷から十五メートル」


 瀬川の声は、低かった。低い声の裏に、張り詰めた弦のような緊張があった。


 灰谷は、展示ホールの中を、二十分間、歩いた。歩きながら、須藤には近づかなかった。近づかなかったのは、須藤の場所を知らなかったからではなかった。灰谷の中の安藤の運動感覚と瀬川の身体感覚が、会場内の監視者の位置を、正確に把握していたからだった。


 灰谷は、四つの視線を感じていた。二階のバルコニーに一つ。一階のトイレ前に一つ。ケータリングの近くに一つ。そして天井のカメラに一つ。


 四つの視線の中で、灰谷は、監視の死角を探していた。探しているうちに、会場の西側の非常階段の近くに、カメラの映らない角度があることに気づいた。気づいたのは、安藤の空間把握能力だった。


 しかし、その死角に移動する意味は、もうなかった。須藤に近づけば、監視者が動く。監視者が動けば、灰谷が須藤に何かをしようとしていることが、記録される。


 灰谷は、須藤を諦めた。


 諦めた灰谷は、展示ホールの通路を通って、出口に向かった。



  ◇



 通路の角を曲がった瞬間に、灰谷の足が止まった。


 通路の向こうから、一人の男が歩いてきていた。


 男の体格は、大きかった。大きい体格の中に、かつてのアスリートの名残りがあった。名残りは、しかし、以前のような力強さではなかった。痩せていた。肩の線が、以前より細かった。


 瀬川陽人だった。


 灰谷と瀬川は、三メートルの距離で、すれ違った。


 すれ違いの時間は、二秒だった。


 二秒の間に、瀬川の目が、灰谷の顔を、射抜いた。射抜いた目の中に、かつてのアスリートの目の光があった。光の色は、水の色だった。水の色のない目で、瀬川は、灰谷を見ていた。


 灰谷の体の中で、瀬川の才能が反応した。


 反応は、これまでにないものだった。瀬川から奪った身体感覚が、灰谷の中で、震え始めた。震え方は、共鳴に似ていた。目の前にいる元の持ち主に向かって、才能が、帰ろうとしていた。


 帰巣本能。


 灰谷の手のひらの器が、激しく振動した。振動は、瀬川に向かって、開こうとしていた。開こうとする器の口を、灰谷は、意志の力で閉じた。閉じるのに、三秒かかった。


 三秒の間に、灰谷の顔が、蒼白になった。


 瀬川は、灰谷を見たまま、通り過ぎた。通り過ぎた後に、瀬川の口が、声にならない声で、一言だけ動いた。


 「返せ」。


 灰谷は、瀬川の口の動きを、読んだ。読んだ瞬間に、全身が冷えた。



  ◇



 灰谷は、会場の外に出た。出た体が、タクシーの後部座席に座った瞬間に、嘔吐した。


 嘔吐物は、朝食べたトーストの残骸だった。残骸の酸っぱい匂いが、タクシーの車内に充満した。運転手が「大丈夫ですか」と声をかけた。灰谷は、何も答えずに、窓を開けた。


 開けた窓から入った冬の風が、灰谷の額の汗を乾かした。乾いた額の下で、灰谷の右手が、膝の上で、震えていた。


 震えている手の中で、瀬川の才能が、まだ、帰巣しようとしていた。帰巣の振動は、車内でも止まらなかった。止まらない振動が、灰谷の体の中にある他の全ての才能を揺さぶっていた。


 揺さぶられた才能たちが、同時に暴れた。フロントガラスの向こうの景色が、一瞬、水中に変わった。水中の中で、将棋の駒が浮遊した。駒の上で、ヴァイオリンの旋律が鳴った。


 幻視は三秒で消えた。


 消えた後の視界に、東京の冬の街が、灰色に映っていた。灰色の街の中を、タクシーが走っていた。走るタクシーの中で、灰谷透真は、自分の体が自分のものだという確信を、もう、持てなくなっていた。



  ◇



 特殊対策室に戻った真壁に、氷室が報告した。


「灰谷は須藤との接触を避けました。二度目の空振りです」


「空振りじゃない」


 真壁は、インカムを外しながら言った。


「灰谷が監視を察知して行動を変えたということは、灰谷に圧力をかけられているということだ。圧力は効いている」


「しかし、才能略奪の現行犯を押さえることはできませんでした」


「現行犯は必要ない。灰谷の行動パターン自体が証拠になる。灰谷が標的候補の場所に現れ、監視を察知して撤退した。この行動は、灰谷が自分のしていることを自覚している証拠だ。故意の立証に使える」


 氷室は、三秒間、黙った。三秒後に頷いた。


「瀬川が灰谷とすれ違ったことは、予定外でした」


「瀬川が動いたのか」


「はい。配置を離れて、灰谷の退出ルートに移動しています。意図的です」


 真壁は、デスクの上の灰谷の写真を見た。写真の横に、「殺意はあるか」と書いた自分のメモが、まだ残っていた。


「瀬川は、法の枠の中にいるか」


「まだ、います。しかし」


 氷室は、言葉を切った。切った言葉の続きを、真壁は、聞かなかった。聞かなくても、わかっていたからだった。


 瀬川陽人の目の中にあるものは、法の枠の中に収まるものではなかった。二十年間の水泳の記憶を奪われた人間の目に、法の枠が見えるわけがなかった。


 真壁は、コートの内ポケットの中の、七年前の手帳の感触を、指先で確認した。確認した感触の中に、自分自身の怒りが、薄く残っていた。


 瀬川の怒りと、自分の怒りは、同じ場所から来ていた。


 同じ場所から来ている怒りを、法の中に留めること。それが、真壁蓮司の、唯一の仕事だった。


 真壁はデスクの上のコーヒーカップを手に取った。中身は、とっくに冷めていた。冷めたコーヒーを飲み干して、カップをゴミ箱に捨てた。カップがゴミ箱の縁に当たって、乾いた音を立てた。


 乾いた音が、特殊対策室の中に、一瞬だけ響いて、消えた。消えた音の余韻の中で、氷室のキーボードを叩く音が、また、規則正しく、始まった。


「真壁さん。もう一つ報告があります」


「何だ」


「灰谷が瀬川とすれ違った瞬間の映像を解析しました。灰谷の右手が、瀬川に向かって開きかけています。開きかけた手を、灰谷自身が強制的に閉じています。これは、先回りオペレーションで得られた最も重要な映像データです」


「なぜだ」


「灰谷が、被害者の近接時に、特定の手の動きをすることが記録されたからです。この手の動きが、才能略奪の前兆動作と一致します。灰谷は、瀬川とすれ違った時に、何かを取り戻そうとした——あるいは何かが、瀬川に向かって、灰谷の意志とは別に動いた。どちらにせよ、異常な身体反応です」


 真壁は、氷室のモニターの前に立った。モニターの中で、灰谷の右手が、コマ送りで、開きかけて、閉じられていた。


 開きかけた手の形は、何かを掴もうとする形ではなかった。何かを手放そうとする形に、似ていた。

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