離反――三条院麗華の計算
三条院議員は、テーブルの向かい側に、娘の麗華を座らせていた。
テーブルの上には、黒田の記事のコピーが一部、置かれていた。コピーの中の灰谷の写真のモザイクの上に、議員が赤いペンで大きくバツ印をつけていた。
「麗華。灰谷との関係を、今日中に清算しろ」
議員の声は、低かった。国会答弁で三十年間使い続けてきた、威圧と説得が同居する声だった。
「清算とは、具体的に何を」
「翠雲荘での接待記録。パーティーの招待リスト。ぜんぶだ。灰谷の名前が載っている書類から、お前の名前を消せ」
麗華は、テーブルの上の記事のコピーを見た。記事の見出しの下に、灰谷の変貌前後の写真が並んでいた。
「お父様。灰谷が何をしたかは、私にはわかりません。しかし、あの男の周辺で起きていることが報道されれば、うちとの関係も掘られます」
「だから言っている。清算しろ」
麗華は頷いた。頷く動作は、滑らかだった。政治家の娘として三十年間、こうした会話に慣れている動作だった。
◇
赤坂の料亭で、麗華は、三人の政財界人と、順番に、食事をした。
一人目は、灰谷を翠雲荘に招待した時の仲介者だった。仲介者に、今後の灰谷への協力を停止するよう依頼した。仲介者は、一瞬だけ眉を上げたが、すぐに頷いた。損得勘定が速い男だった。
二人目は、久我山グループとの取引がある建設会社の社長だった。灰谷の名前を出した途端に、社長の顔色が変わった。「あの記事は本当ですか」と聞かれた。麗華は「わかりません。しかし、距離を取るべきです」とだけ答えた。
三人目は、灰谷に秘書官を紹介した元官僚だった。元官僚は、灰谷と握手をした翌週から、判断力が鈍っているという自覚があった。自覚を、誰にも言えずにいた。麗華が「灰谷と接触した後、何か変わったことはありませんか」と聞いた時、元官僚の目が、一瞬だけ、揺れた。
「何もありません」
元官僚の声は、嘘の声だった。嘘の声を聞き取る能力は、麗華が政治家の家で育った中で、自然に身につけたものだった。
◇
翌日の午後、三条院議員事務所の受付に、灰谷透真が来た。
受付の秘書は、二十代の女性だった。灰谷の顔を見て、一瞬だけ、目を逸らした。目を逸らした理由は、灰谷の顔を、ネットの記事で見ていたからだった。
「灰谷様。大変申し訳ございませんが、議員は本日、ご面会の予定が入っておりません」
「アポイントは昨日入れた」
「確認いたします」
秘書は、デスクの電話を取った。取った電話の相手は、議員の第一秘書だった。第一秘書の声は、受話器の向こうから、はっきり聞こえた。
「灰谷様のご予定は、キャンセルになっております」
秘書は、電話を切って、灰谷を見た。
「大変申し訳ございません。ご予定はキャンセルとのことです」
灰谷の顔には、何の表情もなかった。表情がないことが、秘書には、逆に怖かった。
「わかった」
灰谷は、一言だけ言って、踵を返した。
議員事務所のドアが閉まった。閉まったドアの重い音が、廊下に反響した。反響が消えるまでの三秒間、秘書は、呼吸を止めていた。
◇
事務所を出た灰谷の足音が、議員会館の廊下を、規則正しく、響いた。
響く足音の中で、灰谷の頭の中では、三条院の交渉力が、次の手を計算していた。計算は、しかし、完了しなかった。交渉力が計算しようとした相手は、三条院議員だった。三条院議員の才能を使って、三条院議員を動かそうとしていた。矛盾だった。
矛盾に気づいた瞬間に、灰谷の足が、一瞬だけ、乱れた。乱れた足は、廊下のカーペットの端に引っかかった。引っかかったのは、安藤の運動能力があるはずの灰谷には、ありえないことだった。
ありえないことが、起き始めていた。
灰谷は、議員会館を出て、タクシーに乗った。タクシーの後部座席で、灰谷は、自分の右手を見た。右手の手のひらの器が、今日は振動していなかった。振動していないことが、逆に不安だった。器が振動しない時間は、才能の干渉が蓄積している時間だった。蓄積が限界に達した時に、発作が来る。
タクシーの窓の外を、赤坂のビル群が流れていった。流れていくビル群の中に、翠雲荘の屋根瓦が、一瞬だけ見えた。見えた瞬間に、灰谷の記憶の中で、三条院麗華の香水の匂いが、よみがえった。よみがえった匂いは、しかし、すぐに織部のヴァイオリンの松脂の匂いに上書きされた。
灰谷は、窓から目を逸らした。
◇
その夜、麗華は、自分のオフィスのデスクの前で、スマートフォンを手に取った。
連絡先の中から、一つの番号を探した。番号は、先週、復讐者の会の関係者を通じて入手したものだった。
番号の持ち主は、真壁蓮司だった。
麗華は、電話をかけた。三コールで、真壁が出た。
「真壁さん。三条院麗華です。お話があります。灰谷透真について」
電話の向こうで、真壁の呼吸が、一瞬だけ、変わった。
「翠雲荘での灰谷の行動記録があります。灰谷がどの場面で誰と接触したか。日時と場所の全てが記録されています。お渡しします」
「なぜ、今になって」
「利害が一致したからです。それ以上の理由は、お尋ねにならないでください」
麗華の声は、冷静だった。冷静な声の裏側で、政治家の娘の計算が、回っていた。灰谷を切り捨てることは、保身だった。保身の結果が、捜査を前進させる。麗華はそれを知っていた。知っていて、利用していた。
正義ではなかった。けれど、結果は同じだった。
真壁は、電話の向こうで、五秒間、黙った。五秒後に答えた。
「明日、指定の場所で受け取る。場所は、そちらで指定してくれ」
「赤坂の翠雲荘で。午後二時に。個室を用意します」
電話が切れた後、麗華は、オフィスの窓から、国会議事堂のシルエットを見た。議事堂の灯りは、夜の闇の中で、静かに、光っていた。
灰谷透真という男を、麗華は、最初、面白い素材だと思った。駒として使えると思った。使えると思った駒が、自分を使い返してきた。使い返された時点で、麗華は、灰谷を手放すべきだった。手放さなかったのは、灰谷の中にある何かが、麗華の好奇心を刺激し続けていたからだった。
好奇心の代償は、父への厳命と、政界からの距離と、自分自身の名前への疑惑だった。
代償を払い終える前に、手を切る。それが、三条院家の生存術だった。
麗華は、デスクの引き出しから、翠雲荘の行動記録のコピーを取り出した。コピーの中に、灰谷が翠雲荘で握手した全ての人物の名前と、日時と、場所が、記録されていた。
記録の中に、灰谷の異能の証拠が、時系列で、埋まっていた。麗華はそれを知らなかった。知らないまま、証拠を、真壁に渡そうとしていた。
知らないことが、麗華を守っていた。知っていたら、きっと、渡さなかっただろう。知っていたら、もっと高い値段をつけていただろう。三条院家の血は、そういう血だった。
麗華は、コピーを封筒に入れた。封筒の表には、何も書かなかった。書かないことが、三条院家の流儀だった。




