包囲の目――黒田恭介の第二弾
画面には、週刊実話の電子版の入稿フォームが開いていた。入稿フォームの本文欄に、黒田が三週間かけて書いた記事が、ぜんぶ、入っていた。
記事のタイトルは、『Loss症候群の被害者全員と接点を持つ「ある財界の急成長株」の正体』だった。
灰谷透真の名前は、記事の中には書いていなかった。書かなかった理由は、法的リスクだった。名前を出せば、名誉毀損で訴えられる。訴えられたら、フリーランスのルポライターには、弁護士費用を払う余裕がなかった。
名前の代わりに、黒田は、事実を並べた。
第一の事実。Loss症候群の被害者全員が、発症前に、面識のない特定の人物と身体的に接触していた。
第二の事実。その人物は、接触のたびに、被害者が最も秀でていた能力と同種の能力を、急速に獲得していた。
第三の事実。その人物は、中堅メーカーの平社員から、半年で、年商三千億のグループの戦略室長に昇進していた。
第四の事実。記事には、灰谷の「変貌前後」の写真が二枚、並べられていた。社員証の写真と、久我山グループの役員紹介ページの写真だった。二枚の写真の間に、同一人物とは思えないほどの変化があった。黒田は写真の目にモザイクをかけたが、体格と服装の変化は明確だった。
第五の事実。被害者の発症時期と、この人物の能力獲得時期の相関チャートが、グラフとして掲載されていた。相関係数は、〇・九七だった。
五つの事実は、灰谷透真の名前を出さずに、灰谷透真を指し示していた。
黒田は、公開ボタンの上に、カーソルを置いた。置いたカーソルの上で、指が、一秒だけ、止まった。
一秒の間に、黒田は、妻と、四歳の娘のことを、考えた。妻と娘は、先週から、千葉の義母の家に避難していた。避難の理由は、黒田の自宅ポストに投函された、家族の写真だった。写真には、妻と娘の正面からの顔が、鮮明に映っていた。写真の裏に、何も書かれていなかった。何も書かれていないことが、脅迫だった。
黒田は、公開ボタンを押した。
押した指先から、覚悟が、画面の中に、流れ込んだ。
公開された記事は、黒田が信頼する週刊誌の電子版に掲載された。紙面は来週月曜発売だったが、電子版は即日だった。黒田は、記事のURLを確認してから、ノートパソコンを閉じた。閉じた画面に、ホテルの部屋の蛍光灯の光が反射した。反射した光の中に、黒田の顔が映った。四十歳の、疲れた顔だった。
黒田は、スマートフォンを手に取った。妻に、一行だけ、メッセージを送った。「記事を出した。しばらく、そっちにいてくれ」。妻からの返信は、十秒後に来た。「わかった。気をつけて」。三文字の「気をつけて」の中に、七年間の結婚生活のぜんぶが入っていた。
◇
記事が公開されたのは、木曜日の朝七時だった。
七時半に、ニュースアプリの速報が鳴った。
八時に、テレビの朝のワイドショーが取り上げた。
九時に、Xのトレンド一位が「Loss症候群」になった。二位が「財界の急成長株」だった。三位が「才能略奪前後」だった。
昼までに、記事のアクセス数は、二百万を超えた。
午後一時に、ワイドショーのコメンテーターが「この記事が本当なら、Loss症候群は病気ではなく犯罪だ」と言った。言った瞬間に、SNSの投稿量が跳ね上がった。
午後三時に、ネット上の特定班が動き出した。記事の中の「中堅メーカーの平社員」「年商三千億のグループ」「半年で戦略室長」のキーワードを組み合わせて、灰谷透真の名前に辿り着くまでに、四時間かかった。四時間後の午後七時に、灰谷透真の名前が、Xのトレンド四位に入った。
◇
午後八時。灰谷透真のタワーマンションの書斎。
灰谷は、タブレットの画面を、暗い部屋の中で、見ていた。部屋の照明はつけていなかった。タブレットの画面の光だけが、灰谷の顔を、青白く照らしていた。
画面の中に、黒田の記事が表示されていた。記事の中の写真——モザイク越しの自分の顔を、灰谷は、見ていた。
モザイクの向こうの目を、灰谷は、知っていた。知っている目は、かつての灰谷透真の目だった。光のない、何者でもない男の目だった。
灰谷のタブレットを持つ指が、白くなるまで、画面を握り締めていた。
黒田恭介。
名前は知っていた。匿名ブログの著者の正体は、三条院の情報ルートで、すでに掴んでいた。一度、家族の写真を送って脅した。効かなかった。効かなかった理由は、黒田が家族を避難させたからだった。
灰谷は、タブレットを置いた。置いた後、スマートフォンを手に取った。連絡先の中から、三条院麗華の番号を探した。
番号は見つかった。けれど、電話をかけても、出ないだろうということを、灰谷の中の三条院の交渉力が、計算した。計算結果は正しかった。三コールで切れた。折り返しはなかった。
灰谷は、バルコニーに出た。
バルコニーの手すりに手をかけて、眼下の東京の夜景を見た。夜景は、いつもと同じだった。同じ夜景が、今夜は、揺らいで見えた。揺らぎは、風のせいではなかった。視覚の歪みだった。副作用の、新しい症状だった。
揺らぐ夜景の中で、灰谷の口から、言葉が漏れた。
「黒田を消す」
漏れた言葉の温度を、灰谷は、確認しなかった。確認する機能が、また一つ、壊れていた。
消す。という言葉が、物理的な排除を意味しているのか、社会的な排除を意味しているのか、灰谷自身にも、わからなくなっていた。わからないことが、半年前の灰谷なら恐怖だったはずだった。今の灰谷には、恐怖を感じる回路が、すでに、摩耗していた。
◇
同じ夜、特殊対策室で、真壁と氷室は、黒田の記事を読んでいた。
「黒田が先に出したか」
真壁の声には、複雑な感情が混じっていた。記事が出たことで、世論は動く。世論が動けば、検察も動きやすくなる。しかし同時に、灰谷が追い詰められたことで、予測不能な行動に出る可能性が高まった。
「記事の中の相関チャートは、私が提供したデータではありません」
氷室が言った。
「黒田が独自に作成したものです。しかし、私のデータとの一致率は九十二パーセント。ほぼ同じ結論に達しています」
「二つの独立した分析が同じ結論。これは使える」
真壁は、デスクの引き出しから、一枚の封筒を取り出した。封筒の中には、先週、藤堂の秘書から受け取った調査資料のコピーが入っていた。灰谷の前職での行動記録。同僚の能力低下の時期。人事異動の日付。
「氷室。これで、何割だ」
「黒田の記事と、朝比奈さんの手帳データと、被害者の証言と、藤堂資料を合わせて、七割です」
「あと三割は」
「灰谷の異能を直接証明する物的証拠です。握手で才能を奪うという行為を、科学的に証明する方法が、まだありません」
真壁は、封筒をデスクの上に置いた。置いた封筒の上に、革手袋の右手を、ゆっくりと、置いた。
「科学で証明できないものを、法で裁けるか」
「前例はありません」
「前例がなければ、作る」
氷室は、真壁を見た。見た目の中に、三秒前の棋譜分析の時と同じ熱が、薄く、残っていた。
「真壁さん。灰谷の名前がネット上に出ています。明日から、灰谷の行動は、さらに不安定になります」
「わかっている。監視を強化する。被害者の安全も確保する。黒田にも連絡を入れろ。身の安全に気をつけるように」
氷室は電話を手に取った。
特殊対策室の蛍光灯は、この日の朝、ようやく二本とも交換されていた。新しい蛍光灯の白い光が、ホワイトボードの灰谷の写真を、鮮明に照らしていた。写真の中の灰谷の目が、新しい光の下で、以前より鋭く見えた。




