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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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亀裂――才能たちの叛乱

 俺の手が、駒を持っていた。持っているのに、どこに打つべきかを、俺は知らなかった。知っているのは、俺の中の宮園春人だった。宮園の思考力が、盤面を九手先まで読み、角を三四に打った。打った角が敵陣を貫いた。


 角が盤面から消えた。消えた場所に、水面が現れた。水面の下に潜ると、水が体を包んだ。水は温かかった。温かい水の中で、俺の体は、かつての瀬川のように泳いでいた。泳いでいる体の足が、水中で、ボールを蹴った。蹴ったボールは安藤の少年時代の記憶の中のボールだった。ボールが水中で弧を描いて、畳の上に転がった。畳の上には老人が座っていた。老人は宮園の祖父だった。祖父は微笑んでいた。微笑みの温度は、俺のものではなかった。


 三つの記憶が、夢の中で同時に再生された瞬間に、ヴァイオリンの音が鳴った。織部千景の手が、俺の体の中から、弓を持ち上げた。弓が弦の上を滑り、チャイコフスキーの協奏曲の第一楽章が、脳内で鳴り始めた。


 四つの記憶が、同時に、暴れた。


 目が覚めた。覚めた体は、汗に濡れていた。シーツが背中に張り付いていた。



  ◇



 洗面所の鏡の前に立った。


 鏡の中の顔を見た。見た顔の目に、光があった。光は一つではなかった。複数の光が、一つの虹彩の中で、交互に明滅していた。


 灰谷透真。


 名前を口に出した。出した声が、自分の耳に届いた。届いた声は、灰谷透真の声のはずだった。けれど、その声の中に、久我山の低い響きと、本郷の営業トーンと、結城の冷静さが、混じっていた。


 灰谷透真。


 二度目。二度目の声は、さらに別人に聞こえた。


 灰谷透真。


 三度目。三度目の声は、完全に他人のものだった。名前が、記号になっていた。記号には、温度がなかった。


 俺は、鏡の中の顔を見ながら、自分が誰なのかを、思い出そうとした。思い出すためには、灰谷透真が灰谷透真であった時代の記憶が必要だった。


 埼玉のワンルーム。安い蛍光灯。コンビニ弁当。会社の階段を一段ずつ昇る重い足。上司に叱られた後の背中の丸さ。帰りの電車のドアに映る、何者でもない男の顔。


 記憶は出てきた。出てきた記憶は、モノクロだった。色がなかった。音もなかった。匂いもなかった。かつては確かにあったはずの、記憶に伴う感覚が、全て消えていた。


 代わりに、宮園の祖父の膝の温かさや、安藤の少年時代の芝の匂いや、織部が初めてカーネギーホールの舞台に立った時の客席の拍手の音が、フルカラーで、高解像度で、残っていた。


 他人の記憶のほうが、自分の記憶より、鮮明だった。



  ◇



 午後二時。久我山グループ本社の緊急取締役会。


 議題は、買収五社目の最終決議だった。


 俺は、壇上に立って、スライドを映した。スライドの内容は、物流企業の買収に関する財務分析だった。分析の数字は、俺の中の結城の分析力と、久我山の経営判断力で、構成されていた。


 分析を口頭で説明している途中で、干渉が起きた。


 久我山の経営判断力が、「この買収はリスクが高い。撤退すべきだ」と計算した。同じ瞬間に、宮園の思考力が、「十八手先まで読めば、このリスクは吸収できる」と計算した。


 二つの計算が、同時に、矛盾する結論を出した。


 矛盾する結論が、俺の口の中で、衝突した。


「この買収は——」


 言葉が止まった。止まった口の中で、二つの文章が、同時に出ようとしていた。


 会議室の十二人の役員が、俺を見ていた。十二の視線の中で、俺は、二秒間、何も言えなかった。二秒は長かった。壇上の二秒の沈黙は、永遠に等しかった。


「——リスクを十分に検証した上で、進めるべきと判断します」


 結論は出した。出した結論は、久我山と宮園の矛盾を、強引に縫い合わせたものだった。縫い合わせの精度は、低かった。


 会議室の最後列で、古参役員の目が、冷たく光った。あの目は、灰谷の一瞬の停止を、見逃していなかった。



  ◇



 会議が終わった後、俺は、戦略室長室に戻った。


 戻った瞬間に、発作が来た。


 右手の指がピアノの運指を刻み始めた。足の裏が水を蹴った。頭の中で棋譜が展開された。口が勝手に「お前には飢えがある」と久我山の声で言い始めた。


 四つの才能が、同時に、一斉に発火した。


 俺は、デスクの上に両手をついた。ついた手が震えた。震えている手のひらの器が、過負荷の振動を起こしていた。


 三十秒後に、発作は収まった。


 収まった後の執務室の中は、静かだった。空調の音だけが聞こえた。空調の音が、一瞬だけ、プールの水音に聞こえた。聞こえた瞬間に、俺の右手が、無意識に、机の角を握った。握った手の形は、サッカーボールを持つ形だった。


 俺の中の才能たちが、俺の体を、内側から食い破り始めていた。


 食い破られている体の中で、灰谷透真の占有面積は、昨日よりも、さらに小さくなっていた。小さくなった場所で、灰谷透真は、何も考えていなかった。考える余裕がなかった。余裕がないことすら考えられなかった。


 デスクの引き出しを開けた。引き出しの中に、先月の経営会議の資料が入っていた。資料の表紙には「灰谷透真」の名前が印刷されていた。印刷された自分の名前を見て、俺は、一瞬だけ、それが誰の名前なのか、わからなかった。


 わからなかった時間は、〇・三秒だった。〇・三秒後に、思い出した。思い出したのは、灰谷透真の記憶ではなかった。灰谷透真の名刺を見た、久我山の記憶だった。


 他人の記憶の中の自分を通じて、自分の名前を思い出す。


 この状態が、正常なのか異常なのかを、判断する機能が、俺の中で、壊れ始めていた。


 壊れ始めていることを、俺は、知らなかった。知る機能が、先に壊れていたからだった。



  ◇



 夜、タワーマンションに帰った。


 帰ったリビングの窓から、東京の夜景を見た。夜景の中に、議事堂のドームの光が、小さく、見えた。


 三条院麗華が、最近、連絡を取りにくくなっていた。秘書経由でのアポイント要請に、返答がなかった。政界のバックアップが、少しずつ、剥がれ始めている気配があった。


 気配を感じても、俺の中に、焦りはなかった。焦りが生まれる場所に、久我山の大局観が据えられていたからだった。大局観は「焦るな」と言っていた。


 けれど大局観の横で、三条院から奪った交渉力が、別のことを言っていた。「早く手を打て」と。


 二つの声が、灰谷の中で、また、矛盾していた。


 矛盾する声の隙間で、スマートフォンの画面を見た。画面に、ニュースアプリの通知が一件、表示されていた。


 『久我山グループ周辺で「Loss症候群の関係者」との噂——財界に波紋』


 灰谷は、画面を閉じた。閉じた画面が暗くなった。暗くなった画面の中に、灰谷の顔が映った。映った顔は、誰のものかわからない男の顔だった。


 わからない顔を見ながら、俺の口が、勝手に動いた。動いた口が発した言葉は、「まだ足りない」だった。言った後で、何が足りないのかを考えた。考えた結果は、出なかった。出ないことが、一ヶ月前の俺には、なかった。出ないということは、思考力自体が干渉を起こしているということだった。


 干渉を起こしている思考力で干渉を分析することは、不可能だった。


 不可能の壁の前で、俺は、眠ることにした。眠れば、発作は止まる。止まる代わりに、夢の中で、また、全員の記憶が、暴れるだろう。暴れることを承知で、俺は目を閉じた。

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