財界フォーラム――罠の中の捕食者
財界フォーラムの開会式が終わり、参加者がグラスを片手に、ホール内を歩いている。灰谷透真は、濃紺のスーツに、銀のカフスボタンをつけて、ホールの中央を歩いていた。歩く灰谷の背中に、四方向から、視線が注がれていた。
第一の視線は、VIPラウンジの入口に立った真壁蓮司のものだった。真壁は、フォーラムの警備スタッフのIDカードをつけていた。黒いコートの代わりに、黒いスーツを着ていた。
第二の視線は、会場のケータリングテーブルの後ろに立った安藤圭吾のものだった。安藤は、白いエプロンと黒いベストのスタッフ制服を着ていた。かつてのJリーガーの体格は、スタッフ制服の中で、目立たないように縮まっていた。安藤のスマートフォンは、エプロンのポケットの中で、動画撮影モードになっていた。
第三の視線は、ホールの外の駐車場に停めた車の中の、瀬川陽人のものだった。瀬川は、インカムを左耳につけて、織部千景の通信指揮を聞いている。
第四の視線は、氷室奏のものだった。氷室は、特殊対策室のモニターの前に座って、会場内の監視カメラの映像をリアルタイムで確認していた。
四つの視線の中を、灰谷は歩いていた。
◇
灰谷がVIPラウンジに入った。
ラウンジのソファに、柏木教授が座っていた。六十代の、白髪交じりの、温和な顔の男だった。柏木教授の専門は、脳の可塑性だった。脳が環境に応じて変化する仕組みを、三十年間、研究してきた男だった。
灰谷は、柏木教授の隣のソファに、腰を下ろした。
「柏木先生。先生のご講演、大変勉強になりました」
灰谷の声は、丁寧だった。丁寧な声の裏側で、灰谷の右手の手のひらの器が、ゆっくりと、口を開き始めていた。柏木の脳の中にあるものが、器の口に向かって、引力を発し始めていた。
「いやいや、ありがとう。灰谷さんでしたか。久我山会長のところの」
「はい。先生の研究に、大変興味がありまして。脳の可塑性というのは、つまり、脳は変わり続けるということですよね」
灰谷は、右手をソファの肘掛けの上に置いた。置いた右手は、柏木の左手から、三十センチの距離にあった。三十センチの距離は、握手一回分の距離だった。
灰谷の右手が、肘掛けの上で、微かに、指を開いた。開いた指先が、空気を掴むように、一度だけ、動いた。
灰谷の体が、微かに、前に傾いた。
傾いた瞬間に、灰谷の背中に、何かが触れた。
触れたのは、物理的なものではなかった。視線だった。複数の視線が、灰谷の背中と、肩と、首の後ろに、同時に、当たっていた。
視線の圧力を、灰谷の体が、感知した。感知したのは、灰谷自身の感覚ではなかった。安藤圭吾の運動感覚だった。アスリートが試合中に相手の視線を身体で感じる能力が、灰谷の中で、作動していた。
灰谷の背中の筋肉が、微かに、強張った。
強張った瞬間に、灰谷の頭の中で、宮園の思考力が、状況を計算した。
監視されている。
計算結果は、一秒で出た。視線の数は、少なくとも三つ。ラウンジの入口。ケータリングの方向。そして天井——監視カメラ。
灰谷は、傾いていた体を、ゆっくりと、元に戻した。
「先生、ぜひ改めてお話を伺えればと思います。名刺を交換させていただけますか」
灰谷は、右手で名刺を差し出した。名刺を差し出す動作は、握手ではなかった。名刺の交換で終わった。器の口は、開きかけたまま、閉じられた。
柏木教授は、穏やかに笑って、名刺を受け取った。灰谷が何を企んでいたかを、柏木は、何も知らなかった。
◇
VIPラウンジを出た灰谷は、ホールの出口に向かって歩いた。
歩く速度は、通常と同じだった。通常と同じ速度で歩きながら、灰谷の頭の中は、三つの計算を同時に走らせていた。
一つ目の計算。監視者の正体。視線の角度と強度から、少なくとも一人はプロだった。警察か。
二つ目の計算。撤退ルート。ホールの出口は三つ。正面玄関、VIP通用口、従業員通用口。正面玄関が最も自然。
三つ目の計算。柏木を諦めるべきか。一度目の先回りに成功されたなら、次の標的にも張り込まれる可能性が高い。
三つの計算を走らせながら、灰谷は、正面玄関に向かった。
正面玄関の自動ドアが開いた瞬間に、外の冷たい空気が、灰谷の顔に当たった。
当たった冷気の中で、灰谷の視界の端に、白いものが映った。
白いものは、エプロンだった。ケータリングスタッフの白いエプロンをつけた男が、正面玄関の柱の横に立っていた。
男の顔を、灰谷は、見た。
見た瞬間に、灰谷の脳の奥で、記憶のフラッシュバックが起きた。スポーツジムの、蛍光灯の白い光。パーソナルレッスンの最後に握手をした手の感触。その手の持ち主の顔が、灰谷の記憶の中から、浮かび上がった。
安藤圭吾。
灰谷の足が、一瞬だけ、止まった。止まった一瞬の中で、安藤のエプロン姿が、灰谷の視界から消えた。安藤は柱の裏に移動していた。
灰谷は、タクシー乗り場に向かって歩いた。歩く速度は、変えなかった。変えないことが、灰谷の動物的な判断だった。走れば、追われる。歩けば、見逃される。
タクシーの後部座席に座った灰谷の背中に、冷たい汗が滲んでいた。汗の冷たさの中で、灰谷の右手が、微かに震えていた。
狩る側が、狩られている。
その認識が、灰谷の胸の中で、初めて、明確な形を取った。
◇
特殊対策室で、氷室は、監視カメラの映像を巻き戻していた。
「灰谷は柏木教授と接触しましたが、才能の略奪は行っていません。名刺交換のみ。身体的接触なし」
「察知されたか」
真壁の声が、落ちた。
「おそらく。灰谷がVIPラウンジで、一瞬だけ体を前に傾けた後、急に姿勢を正しています。視線を察知した可能性が高いです」
「安藤が見られたか」
「出口付近で灰谷と安藤がすれ違っています。灰谷の足が一瞬止まっていますが、安藤を認識したかどうかは映像からは断定できません」
真壁は、デスクの上で、拳を握った。
「一回目は空振りか」
「しかし、収穫はあります」
氷室は、モニターの画面を切り替えた。画面に、灰谷がVIPラウンジで柏木の隣に座った瞬間の拡大映像が表示された。
「灰谷の右手に注目してください。名刺を差し出す直前に、指先が微かに震えています。この震えは、過去の監視映像でも、被害者との接触直前に確認されています。才能略奪の前兆動作です」
真壁は、画面を見た。画面の中で、灰谷の指先が、わずかに、揺れていた。
「これが証拠になるか」
「単体では不十分です。しかし、複数の映像から同じパターンが確認されれば、状況証拠として積み上げられます」
氷室は、手元の資料をめくった。
「次の機会は、デザインカンファレンスです。もう一度、張り込みます」
真壁は頷いた。頷いた後に、廊下の方を見た。廊下には、もう誰もいなかった。瀬川は、車の中で、一人で、灰谷の顔を見た記憶を噛み締めているはずだった。
特殊対策室の蛍光灯が、切れていないほうまで、薄く点滅した。二本とも交換が必要になっていた。
先回りは失敗した。しかし灰谷が警戒したという事実そのものが、灰谷に圧力をかけていた。圧力は、目に見えない包囲網だった。




