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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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予測者――氷室奏の方程式

 時刻は、午前二時だった。分析ルームの空調の低い唸りだけが、部屋の中に響いていた。深夜の警視庁の地下二階には、氷室以外に人間はいなかった。


 左のモニターに、散布図が表示されていた。横軸は被害者の社会的地位を数値化したもの、縦軸は才能喪失の深刻度だった。十四の点が、右肩上がりの直線の上に、並んでいた。右肩上がりの直線は、灰谷透真の飢えのエスカレーションを意味していた。


 中央のモニターに、ヒートマップが表示されていた。東京二十三区の地図の上に、灰谷の行動圏が、赤から青のグラデーションで塗られていた。赤は頻度が高い場所、青は低い場所だった。赤の中心は、港区だった。


 右のモニターに、時系列チャートが表示されていた。被害者の発症日と、灰谷の公開スケジュールを重ねたものだった。灰谷が大規模なイベントに出席した日の前後に、新たな被害者が発症しているパターンが、浮かび上がっていた。


 氷室は、三台のモニターのデータを、頭の中で統合していた。統合の作業は、十二時間前に始まっていた。十二時間で、コーヒーを七杯飲んだ。七杯目のカップが、デスクの端に、空のまま置かれていた。


 氷室の指が、キーボードの上を走った。走る指の動きは、規則的だった。規則的な動きの中に、一つだけ、不規則な停止があった。


 停止の原因は、宮園春人の棋譜データだった。


 氷室は、被害者の能力データの一環として、宮園の公式戦の棋譜を、過去五年分、分析していた。棋譜の数値化は、氷室の専門分野ではなかった。けれど、統計的な手法で、宮園の指し手のパターンを数値化することはできた。


 数値化の結果が、画面に表示されていた。


 宮園の棋譜には、明確な変化点があった。変化点の前後で、指し手の傾向が、統計的に有意に異なっていた。変化点の前の宮園は、中盤以降に独創的な手を指すことが多かった。変化点の後の宮園は、定跡通りの手しか指せなくなっていた。


 変化点の日付は、灰谷が銭湯で宮園に接触した翌日だった。


 氷室は、画面の棋譜データを見ていた。見ている目の奥で、何かが、動いた。


 動いたものの名前を、氷室は、知らなかった。知らなかったが、それが感情であることは、わかっていた。氷室奏の二十六年間の人生で、データを見て感情が動いたことは、ほとんどなかった。データは事実だった。事実に感情は不要だった。


 けれど、宮園の棋譜の変化点は、事実であると同時に、一人の人間の人生の断絶だった。


 氷室は、眼鏡を外した。外した眼鏡を、デスクの上に置いた。置いた後、目頭を、右手の親指と人差し指で、押さえた。


 押さえた指の間から、涙は出なかった。出なかったが、目の奥が、熱かった。


 三秒後に、氷室は眼鏡をかけ直した。かけ直した眼鏡の奥の目は、また、いつもの温度に戻っていた。戻っていたが、完全には戻っていなかった。三秒間の熱は、氷室の中に、薄く、残った。


 氷室は、画面の棋譜データの横に、メモを書いた。


 『変化点以降の宮園の指し手は、初段レベルまで低下。変化点以前は、七段から八段。統計的にはp値が0.001以下。別人の棋譜であると言ってよい。ただし、この変化を引き起こした原因は、脳画像にも血液検査にも現れない。現代の科学で計測できない何かが、宮園の脳から消失している』


 書いた後、氷室は、自分が「現代の科学で計測できない何か」と書いたことに、気づいた。氷室奏の二十六年間の人生で、「科学で計測できない」という言葉を使ったのは、初めてだった。データは嘘をつかない。人間と違って。それが氷室の信条だった。


 けれど、この事件のデータは、嘘をつかないことで、科学の限界を指し示していた。



  ◇



 午前三時半に、氷室は、灰谷の行動予測モデルを完成させた。


 モデルは、三つの変数で構成されていた。


 第一の変数は、標的の社会的地位だった。灰谷は、時間が経つにつれて、より高い社会的地位の人間を狙うようになっていた。エスカレーションの曲線は、指数関数的だった。


 第二の変数は、接触の機会だった。灰谷は、大規模なイベントや会議など、自然な形で握手ができる場所で、標的に接触していた。接触の場所には、必ず多数の人間がいた。


 第三の変数は、灰谷が次に必要とする能力の種類だった。灰谷は、その時点で自分に足りない能力を、選択的に奪っていた。営業力の次に分析力を、分析力の次に思考力を。


 三つの変数を組み合わせると、灰谷の次の標的の候補が、三名に絞り込まれた。


 第一候補。著名な脳科学者・柏木教授。来週の財界フォーラムに招待講演で出席予定。


 第二候補。新進気鋭の建築家・須藤。再来週のデザインカンファレンスに登壇予定。


 第三候補。外資系コンサルティングファームのCEO。月末の経営者交流会に参加予定。


 氷室は、三名のリストを、真壁のデスクに印刷して置いた。印刷した紙の余白に、氷室は、ペンで一行だけ書き加えた。


 『先回りできます。獲物の前に、猟犬が着きます』



  ◇



 翌朝、真壁が出勤してきた時、デスクの上のリストを見た。


 リストの下の氷室のメモを読んだ後、真壁は、氷室のデスクに向かった。氷室は、すでに出勤していた。七杯目のカップの隣に、八杯目のカップが、置かれていた。


「氷室。お前、何時に帰った」


「帰っていません」


「そうか」


 真壁は、リストをもう一度見た。


「財界フォーラムの柏木教授。これがいちばん確率が高いのか」


「七十二パーセントです」


「七十二か。復讐者の会と連携して、フォーラム当日に張り込む。安藤を会場スタッフとして潜入させる。瀬川は外で待機。織部が通信指揮。俺とお前が、中から灰谷の動きを追う」


 氷室は頷いた。頷いた後に、一瞬だけ、目を伏せた。


「真壁さん」


「何だ」


「このデータは、統計です。でも、一つ一つの数字の後ろに、人間がいます。忘れないようにしたいと、思います」


 真壁は、氷室を見た。見た目の中に、氷室が二十六年間で初めて見せた表情があった。表情の名前を、真壁は、知っていた。


 怒りだった。静かな、冷たい、怒りだった。


「忘れない。俺たちは、忘れない」


 真壁はリストを内ポケットにしまった。しまった内ポケットの上に、革手袋の手を、一瞬だけ、当てた。



  ◇



 同じ日の午後、久我山グループ本社の役員会議室で、灰谷透真は、壇上に立っていた。


 壇上のプロジェクターに、買収五社目の候補リストのスライドが映っていた。灰谷は、スライドの数字を読み上げていた。読み上げている途中で、右手が、勝手に動いた。


 右手の指が、マイクを持ったまま、ピアノの運指を刻み始めた。ショパンのノクターン第二番。織部千景の才能の残響だった。


 灰谷は、指を止めようとした。止めようとした瞬間に、今度は、足の裏が動いた。足の裏が、水を蹴るリズムを刻み始めた。瀬川陽人の身体感覚だった。


 指と足が、同時に、別々のリズムを刻んでいた。刻んでいる間に、額に冷たい汗が浮いた。


 灰谷は、一秒だけ、自分が誰なのか、わからなくなった。


 一秒後に、宮園の思考力が、全ての動きを強制的に停止させた。停止した体は、マイクを持ったまま、壇上に立っていた。


「失礼しました。次のスライドに移ります」


 声は、平静だった。平静な声の裏側で、灰谷の心臓が、通常の倍の速度で、打っていた。


 会議室の最後列で、古参役員の一人が、灰谷の右手の不自然な動きを、見ていた。見ていた目の中に、警戒の色があった。古参役員は、会議の後で、自分の個人携帯から、ある番号に電話をかけた。電話の相手は、復讐者の会だった。

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