合流——二つの追跡線
追加された椅子は、総務の倉庫から持ってきた折りたたみ式のパイプ椅子だった。蛍光灯は二本あるうちの一本が、まだ切れていた。切れたままの蛍光灯の下に、真壁蓮司と氷室奏と、四人の人間が、座っていた。
織部千景。瀬川陽人。安藤圭吾。黒田恭介。
四人が同じテーブルにつくのは、初めてだった。織部と真壁は新宿の喫茶店で一度会っている。黒田と真壁は情報交換を重ねている。けれど六人が同じ部屋に集まるのは、これが初めてだった。
テーブルの上に、二つの資料が広げられていた。
一つは、織部千景が持ってきたものだった。A3の紙に、時系列が書かれていた。横軸に日付、縦軸に被害者の名前。被害者の名前は、十四名に達していた。十四の名前の横に、発症日と、接触推定日と、「灰谷透真」の三文字が、赤いペンで書かれていた。
もう一つは、氷室奏のモニターの画面だった。画面には、同じ時系列チャートが、デジタルで表示されていた。チャートの精度は、織部の手書きよりも細かった。日付だけでなく、時間帯と場所と接触の種類まで含まれていた。
二つの資料を、並べて見た。
「一致率は九十七パーセントです」
氷室の声が、部屋の中に響いた。
「二つの独立した調査が、同じ結論に達しています。統計的に、これは偶然ではありえません」
真壁は、織部の資料と氷室の画面を、交互に見た。
「織部さん。あなたたちは、いつからこれを追っていた」
「灰谷透真の名前が出たのは、半年前です。以来、被害者全員の証言を集めてきました。接触の時期、場所、方法。全て記録してあります」
織部の声は、穏やかだった。穏やかなのに、その奥に、鋼のような硬さがあった。
瀬川は、テーブルの上の資料を見ていなかった。瀬川の目は、壁のホワイトボードに貼られた灰谷透真の顔写真を、見ていた。
「瀬川さん」
真壁が声をかけた。
「一つ、聞かせてくれ。殺意はあるか」
部屋の空気が、一瞬、止まった。
蛍光灯の切れていないほうが、わずかに唸った。
瀬川は、灰谷の写真から目を逸らさないまま、五秒間、何も言わなかった。五秒後に、視線を真壁に向けた。
瀬川は、答えなかった。
答えない代わりに、自分の右手の、手のひらの中央の白い跡を、左手で覆った。覆った手のひらの中で、かつて水を感じていた神経の残響が、微かに、震えた。
真壁は、瀬川の沈黙を、受け取った。受け取った沈黙の重さを、自分の手帳に書かなかった。書かない代わりに、瀬川の目をもう一秒だけ見て、視線を外した。
「共闘するなら、条件がある」
真壁の声は、静かに重かった。
「法の枠の中でやる。私刑は許さない。灰谷透真を追い詰めるのは、法の力でだ。それが守れないなら、ここで解散する」
安藤が、テーブルの端を拳で軽く叩いた。叩いた拳の握力は、かつての半分以下だった。
「守る。ただし、法で裁けなかった時のことは、今は聞かないでくれ」
黒田が、ノートのペンを止めて、真壁を見た。
「真壁さん。法の枠の中で、灰谷を止められる可能性は、何パーセントですか」
真壁は、黒田の質問に、すぐには答えなかった。答えない間に、蛍光灯が一回だけ、薄く、点滅した。
「わからない。だが、やる」
真壁は立ち上がった。
「明日から、合同捜査会議を週に二回、ここでやる。情報は全て共有する。ただし、外には一切漏らさない。灰谷に勘づかれたら、証拠隠滅される」
織部が頷いた。安藤が頷いた。黒田がペンを走らせた。
瀬川だけが、頷かなかった。頷かない代わりに、椅子から立ち上がって、部屋を出た。
廊下に出た瀬川の後を、真壁が追った。
廊下の非常灯の赤い光の下で、二人は、三秒間、向かい合った。
「瀬川さん。俺は七年前に、大切な人間を、理不尽に奪われたことがある。原因不明で。だから、あなたの気持ちは、わかるつもりだ」
瀬川の目が、真壁の目を見た。
「わかるなら、なぜ法にこだわるんですか」
「法にこだわらなければ、俺たちが灰谷と同じになる。奪う側になる」
瀬川の拳が、握られた。握られた拳の関節が、非常灯の赤い光の中で、白く浮いた。
「灰谷と同じには、ならない。俺たちは、奪われた側だ」
真壁は何も答えなかった。答えない代わりに、コートの襟を立てて、会議室に戻った。
廊下に残された瀬川の影が、非常灯の赤い光の中で、長く伸びていた。
◇
同じ時刻、灰谷透真は、タワーマンションのリビングの窓際に立っていた。
窓ガラスの表面に、前夜の「沙月」の吐息の跡は、もう残っていなかった。暖房の風が、とっくに乾かしていた。
乾いたガラスの向こうに、東京の夜景が広がっていた。夜景を見る灰谷の目は、久我山の大局観で、ビル群の価値を計算していた。計算は正確だった。正確だったが、計算の途中で、右手が勝手に動いた。右手の指が、テーブルの縁を叩いた。叩くリズムは、ショパンのノクターン第二番の冒頭の八小節だった。織部の才能の残響だった。
灰谷は、指を止めた。止めるのに、二秒かかった。一ヶ月前なら、〇・五秒で止められた。制御の速度が、落ちていた。
指を止めた後、灰谷は、自分の右手を見た。右手の手のひらの中央の器は、もう、常時振動していた。振動の中に、十四人分の才能の波形が、重なり合って、干渉パターンを作っていた。
干渉パターンの中に、朝比奈の声が、まだ、残っていた。
「ここにいるよね」。
残っている声を聞くたびに、器の振動が、一瞬だけ、弱まった。弱まった場所に、灰谷透真が、ほんの一秒だけ、顔を出した。一秒後に、また埋まった。
灰谷は、窓から離れて、ソファに座った。座った体が、前のめりに、沈んだ。前のめりの姿勢は、疲労ではなかった。中に入っている十四人分の才能の重量が、背骨を押していた。
ソファの上で、灰谷は、昨日の喫茶店のことを考えた。
朝比奈の顔。朝比奈の声。朝比奈の手。朝比奈の手に向かって伸びかけた、自分の右手。伸びかけて止めた右手の中に、灰谷透真の最後の意志があった。
最後の意志は、今夜もまだ残っていた。残っているのに、残っている場所が、昨日より狭くなっていた。十四人分の才能が、灰谷透真の占有面積を、毎日少しずつ、圧迫していた。
圧迫されている場所で、灰谷透真は、一つだけ、声を出した。
声は、「沙月」ではなかった。
声は、「何が足りない」だった。
何が足りないのかを、灰谷は、知らなかった。全てを持っているはずだった。久我山の経営判断力。宮園の思考力。瀬川の身体感覚。安藤の運動能力。織部の音楽的感性。桐生の行政手腕。梶原の政策立案。三条院の交渉力。藤堂の経営判断力。十四人分の才能が、灰谷の中にあった。
全てを持っているのに、足りなかった。
足りないものの名前を、灰谷の中の誰も、教えてくれなかった。
教えてくれない沈黙の中で、ソファの横のテーブルの上のスマートフォンが、一度だけ、光った。光った画面に、通知が表示されていた。ニュースアプリの速報だった。
『Loss症候群被害者の自助グループ、警視庁と連携か——関係者への取材で判明』
灰谷の目が、細くなった。
細くなった目の中で、結城の分析力と宮園の思考力が、同時に、動いた。
包囲網が、動いている。
灰谷は、スマートフォンを持ち上げた。持ち上げた手は、震えていなかった。まだ、震えていなかった。




