獣は泣かない――第七章終幕
窓の向こうに、東京の夜景が、広がっていた。広がっている夜景を、俺の目は、久我山の大局観で、金額に変換しなかった。変換する機能が、一時的に、止まっていた。止まっている場所で、夜景は、ただの光の粒のまま、俺の視界に、入っていた。
コートの襟に、朝比奈の石鹸の匂いが、微かに、残っていた。残っている匂いの分子を、俺の中の宮園の思考力が、分析しようとした。分析を、俺は、止めた。止めることが、今日二度目の、自分の意志による判断だった。
一度目は、喫茶店で朝比奈を見たとき、引き出しを全部閉めたこと。
二度目は、今、朝比奈の匂いを分析させなかったこと。
二つの判断は、どちらも、灰谷透真自身の意志だった。久我山の経営判断力でも、宮園の思考力でも、三条院の交渉力でもない、灰谷透真という何も持っていなかった男の、自分の意志だった。
その意志が、まだ、俺の中に、残っている。
残っている、ということを、俺は、朝比奈の言葉で、確認した。朝比奈は言った。「あなたは、まだ、ここにいるよね」。ここにいた。涙が出た。涙は、灰谷透真のものだった。
残っているのに、その灰谷透真が、朝比奈に触れたら、朝比奈の才能を奪うかもしれない。器の縁が、朝比奈の中にあるものに、反応した。反応した縁を、俺は、止められるか分からなかった。
だから、「来るな」と言った。
「来るな」は、灰谷透真の、最後の愛だった。
愛、という言葉を、俺は、自分の中で、初めて、使った。使ったとき、その言葉の温度が、他の何の引き出しからも出てきていないことに、気づいた。愛の温度は、灰谷透真だけのものだった。
◇
警視庁特殊対策室。
真壁蓮司のデスクの上に、ホワイトボードの灰谷の写真のコピーが、置かれていた。
真壁は、復讐者の会と連携して、集団提訴の準備を進めていた。弁護士は二人。一人は民事専門。もう一人は、氷室が見つけてきた、医療訴訟の経験がある弁護士だった。
提訴の論点は、傷害罪の拡大解釈。脳機能の不可逆的低下を、身体への傷害と認定させる、という前例のない主張だった。前例がない主張は、却下される可能性が高かった。高かったが、提訴すること自体が、灰谷への社会的圧力になった。
瀬川は、復讐者の会のメンバーと共に、灰谷の行動パターンの監視を続けていた。監視の方法は、物理的尾行ではなかった。灰谷のスケジュールを、公開情報と、久我山グループ内部の協力者から得た情報で、組み立てていた。内部の協力者は、古参の役員の一人だった。灰谷の変貌に気づいた、あの廊下の男だった。
氷室は、Loss症候群の科学的メカニズムの論文を、まだ書き上げていなかった。書き上げられない理由は、メカニズムが解明できないからだった。脳スキャンの結果は、被害者全員に共通する異常な脳活動パターンの低下を示していた。低下は確認できた。しかし、それが「他者の接触によって引き起こされた」ことを証明する方法が、現代の脳科学には、なかった。
織部は、弦のない指で、毎晩、ヴァイオリンの弓を持つ練習を、続けていた。弓を持つ指の形は、完璧だった。完璧な指の形から、音は、出なかった。音の出ない指で弓を持つ行為は、復讐でも訓練でもなかった。忘れないための、儀式だった。自分がかつて何を持っていたかを、指の筋肉に、刻み続けるための、儀式だった。
安藤は、毎朝、ジムで、かつての半分以下のウエイトを、持ち上げていた。半分以下の重さが、安藤の体には、限界だった。限界の重さを持ち上げるたびに、安藤の中で、灰谷透真の名前が、一回ずつ、刻まれた。
四人の復讐者と、一人の警察官と、一人のジャーナリストが、それぞれの場所で、それぞれの方法で、灰谷透真を追い詰める準備を、続けていた。追い詰めた先に、何が待っているか、誰にも分からなかった。分からないまま、冬の東京の中で、六つの意志が、一つの名前に向かって、収束し始めていた。
◇
朝比奈沙月の自宅マンション。
朝比奈は、ノートパソコンの前に、座っていた。画面には、灰谷透真に関するすべてのメモが、一つのクラウドフォルダに、まとめられていた。
フォルダの中に、今日の喫茶店の記録を、朝比奈は、書き足した。
書き足した内容は、三つだった。
一つ。灰谷は泣いた。涙は本物だった。
二つ。灰谷は「来るな」と言った。それは愛だった。
三つ。灰谷の右手が、テーブルの上で、私の手に向かって動いた。そして止まった。止めたのは、灰谷自身だった。
三つの記録を書き終えたあと、朝比奈は、手帳を開いた。手帳の表紙を、指で、ゆっくりと、なぞった。なぞる指の先に、灰谷の「来るな」の声が、まだ、残っていた。
残っている声の中に、灰谷透真がいた。
いる、ということを、朝比奈は、信じた。信じることが、朝比奈にできる、最後のことだった。やめないまま、ノートパソコンの画面を閉じて、窓の外の冬の夜空を、見た。夜空の向こうに、灰谷が住んでいるタワーマンションの灯りが、遠く、光っているはずだった。光っているかどうか、実際には、分からなかった。分からないのに、朝比奈は、あの方角に灰谷がいると、知っていた。
知っているということだけが、朝比奈の武器だった。刃物でも、法律でも、データでもない。灰谷透真を知っている、ということだけが、朝比奈の手の中にある、唯一のものだった。
◇
タワーマンションの窓際。
俺は、窓ガラスに、額を、つけた。
つけた額に、冬のガラスの冷たさが、伝わった。冷たさの中で、俺の頭の中の全ての引き出しが、静かに、動いていた。動いている引き出しの中の、何十人分もの才能が、俺の体の中で、共存していた。共存している才能の重みで、灰谷透真という名前の場所は、もう、指の先ほどの広さしか、残っていなかった。
指の先ほどの広さの場所で、灰谷透真が、一つだけ、声を出した。
声は、名前だった。人の名前だった。
「沙月」
二文字の名前が、窓ガラスの表面を、薄く、曇らせた。
曇ったガラスの上に、二文字の名前の吐息が、一瞬だけ、白く、残った。残った白い跡を、俺の右手が、無意識に、指で、なぞりかけた。
なぞりかけて、止めた。
止めた右手を、俺は、ポケットに、しまった。しまったポケットの中で、右の手のひらの中央の器の縁が、朝比奈の名前の残り香を、まだ、薄く、覚えていた。
窓の向こうの夜景が、また、金額に変換され始めた。
変換が始まった瞬間、灰谷透真の声は、消えた。
消えた場所に、久我山の大局観と、宮園の思考力と、十四人分の才能が、また、隙間なく、埋まった。
獣は泣かない。獣は、泣かない。
泣かないのに、窓ガラスの上の「沙月」の吐息の跡だけが、まだ、消えずに、残っていた。残っている白い跡を、暖房の風が、ゆっくりと、乾かしていった。
乾いていく二文字の白い跡が、暖房の風に溶けて、透明になっていった。透明になる速度は、灰谷透真の人間性が薄れていく速度と、同じだった。
同じ速度で消えていくものの中に、灰谷透真がまだ人間であった証拠の、いちばん最後の、一つが、入っていた。




