最後の人間性――手を伸ばすか、奪うか
拭ったあと、俺の中の引き出しが、一つずつ、再起動した。最初に戻ったのは、久我山の経営判断力だった。次に、宮園の思考力。次に、三条院の交渉力。次に、安藤の反射神経。一つずつ、順番に、引き出しの扉が開いて、その中の才能が、俺の体の中に、戻ってきた。
戻ってきた才能の重さが、涙の跡の上に、のしかかった。
のしかかった重さの下で、灰谷透真の、何もなかった人生の温度が、また、沈んでいった。
沈んでいくのを、俺は、感じていた。感じているのに、止められなかった。止められないことが、朝比奈の前で涙を流したこと以上に、俺の中の何かを、壊した。
朝比奈は、俺の目の変化を、見ていた。
「灰谷くん。今、戻ったでしょう」
「……何が」
「あなたの中の、あの人たちが。さっき消えてたのに、今、また戻ってきた。目で分かる」
俺は、コーヒーカップの縁を、右手の指で、なぞった。なぞる指の動きの中に、久我山の筆跡の癖が、混ざっていた。
「朝比奈」
呼び方が、「朝比奈」に変わったことに、俺は、自分で気づいた。さっきまでは「朝比奈は変わらないな」と呼んでいた。今は、名前だけを、短く、呼んだ。短く呼ぶ呼び方は、久我山が部下の名前を呼ぶときの呼び方だった。
朝比奈も、それに気づいた。
「……それは、灰谷くんの声?」
「分からない」
分からない、というのは嘘ではなかった。久我山の声と灰谷の声の境界が、俺の中で、もう、溶けていた。溶けた境界の中で、どこまでが自分の声で、どこからが他人の声か、俺には判別できなかった。
朝比奈は、テーブルの上に置いていた右手を、俺のほうへ、少しだけ、動かした。
動かした距離は、五センチほどだった。
五センチの距離が、三十センチを、二十五センチに、縮めた。
縮まった距離の中で、俺の右の手のひらの中央の器の縁が、ふっ、と揺れた。
◇
揺れた。
揺れ方は、飢えではなかった。
飢えではないのに、器の縁が反応した。反応した理由を、俺の中の宮園の思考力が、瞬時に、分析した。
朝比奈の中に、才能がある。
才能の種類は、宮園や久我山のような、名前のつく専門能力ではなかった。朝比奈の才能は、もっと古い場所にあるものだった。人の目を見て、その奥にいる本当の人間を、見つけ出す能力。壊れかけた人間の中に残った最後の欠片を、声と目だけで、照らし出す能力。
その能力に、名前はなかった。
名前がないのに、俺の器の縁は、それを、確かに、感じ取っていた。
感じ取った瞬間、俺の右手が、テーブルの上で、ほんの一ミリ、動いた。
動いた方向は、朝比奈の手のほうだった。
一ミリの動きの中に、二つの力が、同時に、働いていた。
一つは、灰谷透真の、朝比奈に触れたいという、三十二年間の何もなかった人生の底から湧き上がる、名前のない感情だった。
もう一つは、器の縁の、朝比奈の才能を嗅ぎ取った、捕食の本能だった。
二つの力は、同じ方向を、向いていた。
同じ方向を向いている、ということが、俺の中の、いちばん最後の人間の部分を、凍りつかせた。
触れたいのか。奪いたいのか。
その二つの区別が、つかない。
区別がつかない、ということは、触れた瞬間に、奪うかもしれない、ということだった。
俺の右手の指先が、テーブルの木目の上で、朝比奈の手まで、あと十五センチの場所で、止まった。
止まった。
止まった指の先端が、微かに、震えていた。震えている指の中で、器の縁が、温かい液体を吸い上げようとする予兆を、出していた。予兆は、今まで誰の才能を奪うときにも感じた、あの、手のひらの中央が開く感覚の、最初の段階だった。
俺は、椅子を、弾いて、立ち上がった。
立ち上がった勢いで、コーヒーカップが、テーブルの上で、揺れた。揺れたカップの中の冷めたコーヒーが、一滴だけ、ソーサーの上に、跳ねた。
「灰谷くん?」
朝比奈の声が、俺の背中に、当たった。
当たった声の温度が、温かかった。温かさの中に、心配と、愛と、灰谷透真を探す光が、全部、入っていた。
俺は、朝比奈のほうを、振り返らなかった。
振り返らないまま、声を、絞り出した。
「来るな」
声は、掠れていた。掠れた声の中に、久我山の声も、宮園の声も、安藤の声も、混ざっていなかった。混ざっていないということは、その声が、灰谷透真自身の声だった、ということだった。
「俺に、近づくな。俺の手に、触れるな」
言葉の一つ一つが、灰谷透真の、最後の人間の部分から、出ていた。
出ている言葉の意味を、朝比奈は、理解した。理解した朝比奈の目から、今度こそ、涙が、溢れた。
「灰谷くん……」
「頼むから」
頼むから。
その三文字は、灰谷透真が、朝比奈沙月に向けた、最後の愛の形だった。触れない、という選択が、灰谷に残された、最後の人間としての行為だった。
朝比奈は、席に座ったまま、俺の背中を、見ていた。
見ている朝比奈の視線が、俺の背中に、温かく、当たっていた。温かさの中に、怒りはなかった。恨みもなかった。あったのは、灰谷透真の中に、まだ灰谷透真がいることを、今、確認した女性の、静かな、確信だった。
確信の光が、俺の背中を通して、俺の中のいちばん古い引き出しの扉を、もう一度、叩いた。叩かれた扉が、また、開きかけた。開きかけた扉の向こうの灰谷透真が、朝比奈のほうを、振り返りたがっていた。
振り返らなかった。
振り返れば、また、あの目を見る。あの目を見れば、また、何かが溶ける。溶けた場所で、器の縁が、また、反応する。反応した縁が、朝比奈の才能に、手を伸ばす。伸ばした手は、灰谷透真が自分の意志で止められる保証のない手だった。
俺は、喫茶店のドアを、開けた。
開けたドアの向こうから、冬の冷気が、俺の顔を、打った。打った冷気の中で、涙の跡が、一瞬で、凍って、乾いた。
◇
喫茶店の外の路上で、俺は、五歩だけ、歩いた。
五歩目で、立ち止まった。
立ち止まった俺の視界の端に、向かいのビルの窓ガラスが、光った。光ったガラスの中に、人影が、映っていた。
人影の輪郭を、俺の中の安藤の引き出しが、自動的に、計測した。身長。体重。姿勢。全部の数値が、あの男のものだった。
瀬川陽人。
瀬川が、向かいのビルの窓際から、俺を、見ていた。
見ている瀬川の目は、冷たかった。冷たさの中に、銀色の魚を奪われた男の、半年分の怒りが、凝縮されていた。
俺と瀬川の視線が、冬の路上で、交差した。
交差した視線の間を、喫茶店のドアの向こうの朝比奈の泣き声が、微かに、漏れていた。
瀬川は、動かなかった。動かない瀬川の体の中で、奪われた才能の痕跡が、半年分の復讐の意志と結びついて、一つの形を成していた。形の名前は、灰谷透真を止める、という決意だった。
俺は、瀬川の視線を受けたまま、前を向いた。
前を向いた俺の背中に、二つの視線が、同時に、刺さっていた。一つは、瀬川の冷たい視線。もう一つは、喫茶店の窓ガラスの向こうの、朝比奈の、温かい視線。
冷たい視線と温かい視線の間で、俺の右の手のひらの中央の器の底で、朝比奈の才能の残り香が、まだ、温かく、漂っていた。




