再会――灰谷くん、ここにいるよね?
鳴った音は、五年前と、まったく同じ音だった。同じ音なのに、ドアの向こうから入ってくる空気の温度が、五年前とは、違っていた。五年前の空気には、安いコーヒーの匂いと、窓際の席の光と、万年平社員だった自分の体温が、混ざっていた。
今日の空気には、コーヒーの匂いだけが、残っていた。
俺は、その喫茶店の窓際の席に、座っていた。
窓際の席は、五年前に、朝比奈と、よく座っていた席だった。よく座っていた、ということは、ここで何度も、二人でコーヒーを飲んだ、ということだった。飲みながら、何を話したか。仕事の愚痴。週末の天気。コンビニの新商品。何でもない話を、何度も、した。
あの頃、何でもない話をしていた自分の声が、俺の中の、いちばん古い引き出しの奥に、まだ、微かに、残っていた。残っている声の音量は、久我山の声の十分の一以下だった。
ドアの向こうから、朝比奈沙月が、入ってきた。
入ってきた朝比奈の顔を、俺は、見た。
朝比奈の顔は、変わっていなかった。穏やかな目。薄い唇。肩より少し長い髪。会社の廊下で何度もすれ違った、あの朝比奈の顔が、そのまま、五年分の時間を経て、喫茶店のドアの向こうに、立っていた。
変わっていないのに、俺の目が、朝比奈を見る角度が、変わっていた。
変わった角度の中で、俺の中の安藤の引き出しが、朝比奈の歩幅と心拍数を計測し、宮園の引き出しが朝比奈の表情の微細な変化を分析し、三条院の引き出しが朝比奈の発する空気の政治的意味を読み取ろうとした。
読み取ろうとした瞬間、俺は、それらの引き出しを、全部、閉めた。
閉めたのは、自分の意志だった。
朝比奈を、他人の引き出しで、見たくなかった。
そう思った自分に、俺は、驚いた。驚く、ということが、もう三ヶ月以上、なかった。久我山を奪って以来、俺の中で感情と呼べるものは、飢えだけだった。飢え以外の感情が動いたのは、今日が、三ヶ月ぶりだった。
◇
朝比奈は、俺の向かいの席に、座った。
座ったあと、朝比奈は、しばらく、俺の顔を、見ていた。見ている目の中に、何かを探している光が、あった。探している何かの名前を、朝比奈は、まだ、口に出さなかった。
「久しぶりだね、灰谷くん」
灰谷くん。
その呼び方を聞いた瞬間、俺の中の、いちばん古い引き出しの扉が、もう一段、開いた。開いた扉の向こうから、万年平社員だった頃の灰谷透真の記憶が、一枚ずつ、零れ落ちてきた。
会社の給湯室で朝比奈がコーヒーを淹れてくれたこと。エレベーターの中で朝比奈が「灰谷くん、今日も遅くまで?」と聞いたこと。忘年会の帰り道で朝比奈が「来年は、いいことあるよ」と笑ったこと。
いいことあるよ。
あの四文字が、俺の胸の、名前のない場所を、久しぶりに、軋ませた。
「久しぶりだね」
俺の声は、滑らかだった。滑らかすぎた。久我山の人心掌握術が、俺の声帯を、無意識に、制御していた。制御された声は、朝比奈を安心させる最適な周波数で、発せられていた。
朝比奈は、コーヒーカップを、両手で、包んだ。包んだ指の力が、カップの取っ手の上で、わずかに、強かった。強さの中に、朝比奈の緊張が、入っていた。
「灰谷くん。あなた、変わったね」
「そうかな」
「声が違う。目が違う。座り方が違う。全部、違う」
朝比奈の声は、震えていなかった。震えていない声の中に、震えを抑え込んでいる意志の力が、はっきりと、見えた。
「……朝比奈は、変わらないな」
「変わったよ。あなたのことを、ずっと、調べてたから」
調べていた。
その三文字が、俺の中の警戒の引き出しを、一斉に、開けた。開いた引き出しの中から、久我山の危機管理能力と、三条院の交渉力が、同時に、立ち上がった。
朝比奈は、俺の目の変化を、見逃さなかった。
「今の目。それが、あなたの変わった目」
朝比奈の声は、静かだった。
「昔のあなたは、警戒するとき、目を逸らした。今のあなたは、目が鋭くなる。それは、灰谷くんの目じゃない」
俺の口元が、微かに、動いた。動き方は、久我山の口元の動き方だった。
「何のことか、分からないけど」
「嘘。分かってる。久我山会長に、聞いた。あなたが、人の才能を、奪っていること。久我山会長から、あなたが、四十年分の経営者としての力を、奪ったこと」
朝比奈の声は、淡々としていた。淡々としているのに、一語一語の間に、震えを噛み殺した痕跡が、入っていた。
久我山。
その名前が出た瞬間、俺の手のひらの中央の器の縁が、ぴくり、と動いた。動いた方向は、朝比奈に向かう方向ではなかった。自分の内側に向かう方向だった。
朝比奈は、コーヒーカップから手を離した。
離した両手を、テーブルの上に、置いた。
「灰谷くん」
朝比奈の目が、俺の目を、まっすぐ、見た。
「あなたは、まだ、ここにいるよね」
ここにいるよね。
その五文字が、俺の中の、全ての引き出しを、一瞬、止めた。
宮園の思考力が止まった。安藤の反射神経が止まった。久我山の経営判断力が止まった。三条院の交渉力が止まった。全部の引き出しが止まった場所で、灰谷透真だけが、残った。
残った灰谷透真は、何も、持っていなかった。何も持っていない男が、朝比奈の目の中に、自分の反射を、見た。
反射の中の自分は、三十二年間の、何もなかった、灰谷透真の顔をしていた。
俺の目の奥が、熱くなった。
熱くなったのは、久我山の記憶でも、宮園の思考でも、安藤の反射でもなかった。熱くなったのは、灰谷透真自身の、三十二年間の、何もなかった人生の、温度だった。
俺の頬を、涙が、一筋、伝った。
伝った涙を、俺は、拭わなかった。拭わないまま、朝比奈の目を、見続けた。
見続けている間だけ、俺の中の全ての引き出しは、沈黙していた。沈黙している引き出しの代わりに、何もない、空っぽの、灰谷透真だけが、朝比奈の前に、座っていた。
朝比奈の目にも、涙が、浮かんでいた。浮かんでいるのに、朝比奈は、泣かなかった。泣かないまま、朝比奈は、俺の顔を、見続けていた。
「灰谷くん。泣けるんだね」
その一言が、俺の中の、いちばん深いところに、落ちた。
落ちた場所は、銀色の魚と、青い線と、塩の白い跡と、碁石の黒い輪郭が、全部、沈んでいる場所だった。その場所の、いちばん底に、灰谷透真の、三十二年間の何もなかった人生が、折り畳まれたまま、埃を被って、沈んでいた。
朝比奈の言葉は、その埃を、ほんの少しだけ、払った。
払った埃の下から、万年平社員だった灰谷透真の手の感触が、微かに、浮かび上がった。何も奪わない、何も持っていない、ただの人間の手の感触だった。
窓からの午後の光が、テーブルの上の二つのコーヒーカップを、同じ角度で、照らしていた。照らされた光の中で、灰谷透真の涙と、朝比奈沙月の目の輝きだけが、この喫茶店の中の、いちばん静かで、いちばん温かい場所で、向かい合っていた。
テーブルの木目の上で、二人の手が、触れていなかった。触れていない距離は、三十センチほどだった。三十センチの距離の中に、五年分の時間と、十四人分の才能と、灰谷透真の残った人間性の全てが、詰まっていた。




