包囲網――三つの矢が交差する
年表の左端に、七年前。右端に、先週。七年分の時間軸の上に、十四人の被害者の名前が、赤い磁石で、留められていた。赤い磁石の下に、それぞれの被害者の職業と、失った能力が、黒いマーカーで、書かれていた。
真壁蓮司は、ホワイトボードの前に立って、電話のスピーカーを、テーブルの上に、置いた。
スピーカーから、二つの声が、同時に、流れていた。一つは、氷室奏のキーボードを打つ音。もう一つは、織部千景の声だった。
「真壁さん。こちら側の結論は出ました」
織部の声は、静かだった。静かさの中に、復讐者の会の四人分の覚悟が、圧縮されていた。
「灰谷透真を、追い詰める方法は、三つあります」
氷室が、画面を共有した。画面の中に、三つの選択肢が、箇条書きで、表示された。
一つ目。黒田の記事をもとに、社会的信用の失墜を狙う。効果は不確定。灰谷側の情報操作能力が高いため、長期戦になる。
二つ目。被害者の集団提訴。法的根拠は弱いが、世間の注目を集められる。灰谷の経済活動に制限をかけられる可能性がある。
三つ目。物理的な証拠を押さえる。灰谷が次に誰かの才能を奪う現場を、記録する。
真壁は、三つの選択肢を、しばらく、見ていた。
「三つ目は、危険すぎます。新たな被害者を出すことになる」
「分かってるわ」
織部の声に、苦い色が混ざった。
「だから、一つ目と二つ目を、同時にやる。黒田さんの記事を補強する追加証言を集めながら、弁護士を通じて、集団提訴の準備を進める」
真壁は、頷いた。頷きながら、自分の中の、法の番人の声が、また、軋んだ。集団提訴は法的手続きだ。そこまでは問題ない。しかし、真壁が今やっていることは、被害者グループと連携して対象人物を追い込む行為だった。それは捜査ではなかった。捜査ではないものに、警察官が加担している。
軋みの音を、真壁は、飲み込んだ。飲み込んだ先に、十四人の被害者の名前が、ホワイトボードの上で、赤い磁石に留められたまま、真壁を見ていた。
電話のスピーカーから、瀬川の声が、聞こえた。
「真壁さん。一つ、確認したい」
瀬川の声は、いつもより、低かった。
「灰谷を追い詰めたあと、あいつが暴れたら、どうなる。あいつの手が誰かに触れたら、また一人、才能を失う。追い詰めるということは、獣を角に追い込むということだ。追い込まれた獣が、いちばん危ない」
真壁は、瀬川の問いに、すぐには答えなかった。
答えない時間の中で、ホワイトボードの灰谷の写真が、蛍光灯の下で、白黒で、光っていた。
「……対面での接触は、最小限にします。追い詰める過程では、直接会わない。社会的に、法的に、外側から圧をかける」
「それで止まるか」
瀬川の問いは、真壁への問いではなかった。銀色の魚を奪われた漁師は、答えを持っていなかった。
織部が、話題を切った。
「朝比奈沙月という女性から、連絡がありました。灰谷の元同僚。久我山会長経由で、こちらに辿り着いた」
「灰谷に会いたい、と」
「ええ。危険だと言いましたが、聞きませんでした」
織部の声の中に、朝比奈という女性への敬意と心配が、同じ量だけ、入っていた。
「……朝比奈さんには、こちらの情報は渡さないでください。一般市民を巻き込むわけにはいかない」
真壁は、そう言いながら、自分の言葉が、もう手遅れかもしれないことを、薄く、感じていた。
◇
深夜。
久我山グループ本社の十六階。
灰谷透真の執務室は、灰谷以外の人間が、全員、帰ったあとの、本社ビルの中に、あった。
灰谷は、窓際の椅子に、座っていた。
窓の向こうに、東京の夜景が、広がっていた。夜景の光の粒の一つ一つが、久我山の大局観を通して見ると、金額に変換された。変換された金額の合計が、久我山グループの年商と、ほぼ同じ桁数になった。
灰谷は、デスクの上のウイスキーのグラスを、持ち上げた。グラスの中の氷が、溶けかけて、ウイスキーの琥珀色を、薄く、変えていた。氷が溶ける音が、静かな執務室の中で、やけに大きく、聞こえた。
大きく聞こえる、ということは、静かすぎる、ということだった。
静かすぎる執務室の中で、灰谷は、自分の体の中に入っている、何人分もの才能の目録を、頭の中で、数えた。宮園。安藤。瀬川。織部。結城。三条院。桐生。藤堂。氷室。久我山。他にも何人か。数えるたびに、数が、少しずつ、増えた。増えた数の分だけ、灰谷の能力は高まった。高まったのに、灰谷の中の、何かが、満たされなかった。
満たされない場所の名前を、灰谷は、もう、知っていた。
器の底だった。
右の手のひらの中央の器の底は、どれだけ才能を注いでも、底が見えなかった。底が見えないまま、飢えだけが、器の縁に張りついていた。
灰谷は、グラスを置いた。置いたあと、窓に映る自分の顔を、見た。
窓に映る顔は、灰谷透真の顔だった。灰谷透真の顔なのに、その表情の動かし方が、久我山に似ていた。口元の力の入り方が久我山で、目の細め方が宮園で、首の傾げ方が三条院だった。灰谷透真の顔の上で、何人もの他人の筋肉の記憶が、交互に、再生されていた。
再生されている顔の奥で、灰谷透真自身の表情を、灰谷は、もう、思い出せなかった。三十二年間の、何も持っていなかった自分の顔の表情が、何人もの才能の下に、埋もれて、消えていた。
スマートフォンの画面が、光った。
朝比奈沙月からの返信だった。
「元気だよ。今度、会えない?」
灰谷は、その八文字を、しばらく、見ていた。
八文字の中の「元気だよ」の四文字が、灰谷の中の、いちばん古い引き出しの扉を、軽く、叩いた。叩かれた扉の向こうに、灰谷透真の、万年平社員だった頃の、何もなかった日々の記憶が、埃を被ったまま、置かれていた。
その記憶の中にだけ、朝比奈沙月がいた。
朝比奈の声が、灰谷の中の引き出しの中で、まだ、微かに、鳴っていた。鳴っている声の温度は、才能でも能力でもない、もっと古い場所から来ていた。
灰谷は、返信を、打った。
「来週、空いてる。前に行った店、まだあるかな」
打ったあと、灰谷は、送信ボタンを押す前に、自分の右手を、見た。右手の手のひらの中央の器の縁が、朝比奈の名前の近くで、ほんの一瞬、揺れた。揺れ方は、飢えではなかった。飢えとは別の、名前のない、温かい何かだった。
温かい何かの正体を、灰谷は、名づけなかった。名づけることは、認めることだった。認めることは、灰谷の中の、久我山から奪った経営判断力が、「弱点」と分類するものを、自分の中に抱えることだった。弱点を持つ人間は、追い詰められたとき、弱点から崩れる。灰谷は、それを知っていた。知っていたのは、久我山から奪った知識の中に、その法則が、入っていたからだった。
久我山は、弱点を持っていた。弱点は、妻と、娘と、碁盤と、「信」の一文字だった。その弱点が、久我山を、五十五年間、人間にしていた。
灰谷は、名づけないまま、送信ボタンを、押した。
押したあと、窓の向こうの夜景を、また、見た。夜景の光の粒が、灰谷の瞳の中で、値段を失って、ただの光に、一瞬だけ、戻った。




