彼女の眼鏡越しに
フロアにはまだ半分の照明しか点いておらず、コピー機のウォームアップ音だけが、低く、遠く、聞こえていた。一番乗りの席でパソコンを立ち上げ、インスタントのコーヒーに湯を注ぐ。立ち上る湯気を目の前で見ながら、今日一日の数字と向き合う心の準備をする。そのわずかな五分間を、朝比奈は、誰にも邪魔されたくなかった。
けれどこの朝、彼女はコーヒーの紙コップを手にしたまま、三分ほど、画面を見つめて固まっていた。
開いていたのは、営業部の月次グラフだった。
「……なんで、こんな角度になるのよ」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
◇
朝比奈のパソコンの中には、社内の全部署の売上推移ファイルが、月ごとに整理されて保存されている。経理の仕事上、どの部署にどのタイミングでどれだけの数字が立ったかを把握するのは当然だった。だから、営業一課の課員個別の折れ線が、日常業務の中でふと目に入るのも、珍しいことではない。
珍しかったのは、灰谷透真の線だった。
二ヶ月前までの灰谷の線は、ほとんど平行線だった。ぼんやりと横に伸びて、ときどき下に折れ曲がって、気まぐれに少しだけ上を向く。どこの会社にも一人や二人はいる、可もなく不可もない営業の線だった。
それが、先月から、角度を変えた。
最初の変曲点は、あまりに小さな変化だったから、朝比奈も最初は見落としていた。けれど今週に入って、その線は、グラフ用紙の右上に向かって、ほとんど跳ね上がるような勢いで伸びていた。月末までに、平均の一・五倍、前月比の三倍。こんな伸び方を、朝比奈は、十年の経理人生で一度も見たことがなかった。
新人が爆発する線ではない。新人は、もっとゆるやかに伸びる。
転職組の線でもない。転職組は、最初の半年が一番きつい。
ベテランが化ける線にも、似ていない。ベテランの化け方には、必ず、助走がある。
灰谷の線には、助走が、なかった。
朝比奈はコーヒーを一口飲んだ。ぬるくなっていた。いつの間に時間が経ったのか、分からなかった。
数字は嘘をつかない。嘘をつく余地がないように、経理の数字は作られている。だからこそ、嘘のように見える数字は、必ず、背後に何かがある。経理部員としての直感が、朝比奈の背筋に、薄い糸を一本、通した。
◇
昼休み、朝比奈は営業部のフロアを横切って、社員食堂へ向かった。いつもなら自席で弁当を広げる日だったが、今日はわざわざ食堂を選んだ。あの席から、食堂の入口がよく見えるからだった。
食堂の窓側の、いつもの灰谷の席に、彼の姿はなかった。代わりに、レジの近くで、若手の営業社員が三人、小声で何かを話していた。朝比奈はトレーを持ったまま、さりげなく、その後ろに並んだ。
「灰谷さんって、急にどうしたんすかね」
「さあ。でも部長の覚えめでたいし、もう課長昇進の噂まで出てるぞ」
「課長って、本郷さんの後釜?」
「しっ。本郷さんの話は、最近、しないほうがいい」
三人は何か嗅ぎつけた子供のように顔を寄せ合って、レジに進んでいった。朝比奈はトレーに味噌汁の椀を載せたまま、ほんの一瞬、指先の力が抜けそうになった。椀の中の豆腐が、小さく揺れた。
――本郷さんの話は、最近、しないほうがいい。
その一言の意味を、朝比奈はもう、別のルートから知っていた。本郷の月次の経費精算が、先月から急に雑になっていた。書類の誤記、日付の取り違え、交通費の区間の打ち間違え。本郷は朝比奈にとっては「嫌味ではあるが仕事は正確な上司」の代表例だった。その人の書類が、崩れていた。二十年の型が崩れるのは、よほどのことだ。
本郷が崩れ、灰谷が跳ねる。
二本の線を、朝比奈は、頭の中で並べてみた。
並べた瞬間、彼女は、自分の頭の中でその二本の線が、鏡写しのように、ちょうど対称の角度で描かれていることに気づいた。片方が下がった分だけ、片方が上がっている。そんな偶然が、あるだろうか。
ある。世の中には、偶然はある。
でも、数字の上で、偶然は、そんなに綺麗な形をしていない。
◇
レジで勘定を済ませて席に着くと、窓際の奥のテーブルで、灰谷がちょうど昼食を食べ終えたところだった。朝比奈は意を決して、自分のトレーを持って、そちらに歩いた。
「灰谷くん、隣、いい?」
灰谷は一瞬だけ、驚いた顔をしてから、頷いた。
「どうぞ」
朝比奈は椅子を引いて座った。味噌汁の湯気が、ふわりと二人の間に上った。
「最近、すごいね」
「まあ、なんとか」
灰谷の返事のリズムが、朝比奈の耳の奥に、小さく引っかかった。「まあ」で一拍。「なんとか」で半拍。短い相槌なのに、妙に、整っていた。前の灰谷は、こんなに綺麗な間の取り方をしない子だった。もう少し、相槌が遅れる。考えすぎて、間が、埋まらない。そういう、不器用な子だった。
「――ねえ、灰谷くん」
「うん?」
「本郷さん、最近、元気ないって噂だけど」
朝比奈は、なるべく、何気ない口調で言ったつもりだった。世間話の延長のつもりだった。けれど、その一言を口に出した瞬間、自分の声が少しだけ強張ったのが、自分でも分かった。
灰谷の箸を持つ手が、ほんの一瞬、止まった。
それは、本当に、ほんの一瞬だった。一秒の半分もなかったかもしれない。普通の人なら、絶対に気づかない間だった。けれど朝比奈は、数字の中の微細な差異を毎日探している人間だった。その一瞬の間が、彼女には、はっきりと見えた。
「ああ、本郷さんね。……部長面談で、なんか話があったとかって、噂は聞いたけど」
「そう、なんだ」
灰谷はそう言って、箸を動かし始めた。箸の先が、茄子の煮物を、きれいに半分に切った。迷いのない動きだった。迷いがなさすぎた。
朝比奈は味噌汁の椀を口に運んだ。味が、ほとんど、しなかった。
◇
その夜、朝比奈は自宅のリビングのテーブルに手帳を広げていた。
先週書いた「灰谷くんの変化。プレゼン、本郷さんの言い回し」という一行の下に、今日の日付を書き、もう一行、つけ加えた。
――本郷の話に、手が止まる。
ペンの尻で、こめかみを軽く叩いた。自分がやろうとしていることは、本当にただの考えすぎかもしれない。同期の一人を、数字の上だけで疑う、悪趣味な趣味かもしれない。そう思うたびに、彼女は手帳を閉じようとした。
閉じなかった。
朝比奈は眼鏡を外して、目頭を押さえた。瞼の裏に、大学時代にサークルの打ち上げで、一人だけ端の席で縮こまっていた灰谷の姿が浮かんだ。あの頃の灰谷は、誰かに話しかけられるたびに「あ、はい、あ、すみません」と何度も頭を下げる、そういう子だった。朝比奈はあの頃、灰谷のことを「かわいそうな子」だと思っていた。今なら、その呼び方が、どれだけ無礼だったかが分かる。あの頃の灰谷のほうが、今よりもずっと、人間らしかった。
手帳の新しい頁に、朝比奈は、小さな文字で書いた。
――考えすぎだとしても、記録は残しておく。
ペンを置いて、彼女は灯りを消した。
暗くなった部屋の中で、閉じた手帳の背表紙だけが、窓の外の街灯の光で、ぼんやりと白く光っていた。




