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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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記憶の味

 社内の飲み会で一度だけ同じテーブルになったことがあって、生ビールをジョッキ半分空けたあたりで頬が真っ赤になり、三杯目には数字の話と失恋の話が半々で混ざり始める、そういう男だった。なのに、記憶だけは異常に強かった。五年前の決算資料のページ番号を、そらで言う。どの銀行の担当者がいつ異動したかを、手帳も見ずに言う。本人は「暗記が得意なんですよ、それだけです」と照れていたが、俺はそれが「それだけ」ではないことを、もう知っていた。


 金曜日の夕方、俺は水野の机の前で、適当に笑みを作った。


「水野、今夜、軽く一杯どう?」


「え、灰谷さんが、俺を? 珍しいっすね」


「ちょっと、経理側の話、聞きたくて」


「いいっすよ。ちょうど残業もないし」


 水野は無邪気な顔で頷いた。その顔を見た瞬間、俺は自分の胸の内側に、冷たい水の膜が張られるのを感じた。罪悪感の膜ではなかった。「作業工程の最初の手応え」のような膜だった。



  ◇



 新橋のガード下の、安い居酒屋を選んだ。


 上品な店を選ばなかったのは、わざとだった。安い店のほうが、肩を叩いても不自然ではない。空間が狭いぶん、距離を詰めやすい。酔った相手は、自分から近づいてくる。そういう「設計」を、俺はもう、無意識のうちに組んでいた。


 一杯目、水野はもうよく喋っていた。二杯目で経理部の愚痴、三杯目で上司の結婚生活の話、四杯目で「実は俺、高校時代に一回だけ告白されたことがあって」と、どうでもいい話を始めた。俺は適度に笑い、適度に相槌を打った。かつての俺には、こんな相槌は打てなかった。打ち方を知らなかった。今は、本郷の間と田村の呼吸が、勝手に言葉の隙間を埋めてくれる。


「水野、お前、記憶力すごいよな」


 そう振ると、水野は嬉しそうに顔を上げた。褒められることに慣れていない顔だった。


「あー、まあ、それだけは。子供のころから、一回見たものはなんとなく覚えてるタイプで」


「羨ましいな」


「そうですか? 便利なだけっすよ、別に」


 そう言って水野は、ジョッキに残ったビールを一息で飲み干した。頬はもう、熟れた林檎みたいだった。


 俺はカウンター越しに手を伸ばして、水野の肩を、軽く叩いた。


「無理すんなよ。送ってくから」


 叩いた瞬間、俺の指先に、いつもの熱がきた。


 いつもの、と自分で言えるようになった自分に、俺は一瞬だけ、気を取られた。



  ◇



 流れ込んできたのは、整頓された書庫だった。


 見渡す限り、本棚だった。本棚に、紙のような薄い板が、整然と差し込まれている。板の一枚一枚に、数字と、名前と、日付と、ちょっとした顔の表情のスケッチがあった。誰がどの案件で、どの銀行担当者にどんな口調で話しかけたか、どの会議室の空調が何月に壊れたか、先月の経費精算で社長の秘書が書き間違えた漢字が何だったか。


 そんなことまで、覚えているのか。


 俺はその書庫の真ん中で、数秒、立ち尽くした。いや、立ち尽くしたのは頭の中の俺で、現実の俺は、ただ、ジョッキに口をつけていた。書庫は音もなく、俺のものになっていった。水野は何も気づかず、俺の肩を軽く押し返して「灰谷さん、すんません、俺、もう限界」と笑っていた。


 俺は勘定を払い、水野をタクシーに押し込んだ。運転手に自宅の住所を告げる水野の声が、もう呂律の半分を失っていた。ドアが閉まり、赤いテールランプが遠ざかっていく。


 路上に取り残された俺の中で、新しい書庫が、静かに在庫点検を始めていた。



  ◇



 翌朝、出社した俺の頭は、軽く痺れていた。


 脳の奥に、三段階のフィルターが追加されたような感覚だった。エレベーターの中で耳にした同期の雑談、壁のポスターの隅の小さい文字、自販機のボタンの配置。全部が、なぜか、落としたくても落ちない場所に、勝手に引っかかっていく。


 席につき、机の上に積まれた資料を一枚取った。数字の並びに目を落とした瞬間、背筋にひゅっと何かが走った。


 数字が、喋っていた。


 先月の売上の折れ線の曲がり方が、先々月のクライアントの支払い遅延と、去年の同月の為替と、つながっていた。それらが互いに呼び合って、「ここに来月のリスクがある」と、一つの音程で聞こえた。以前の俺なら、数字は数字だった。意味を持たない黒い記号の列だった。いまは、その列が、音楽のように流れていた。


 部長が俺を呼んだ。


「灰谷、ちょっと来てくれ」


「はい」


 会議室には、部長と営業部の主任が二人、待っていた。次のプロジェクトの話だった。俺は椅子に座る前から、その案件の数字の弱点を三つ、頭の中で数え上げていた。部長が喋り出す前に、俺は言葉を持っていた。


「結論から申し上げます」


 声が、また、自分の声ではなかった。


 本郷の間。田村の呼吸。新井の段取り。水野の数字。それらが一つの声になって、会議室を一回、ゆっくり撫でた。部長の目が、ほんの少しだけ、見開いた。


「……お前、本当に、どうしたんだ、最近」


「コツを、つかんだだけです」


 俺はそう答えた。鏡の前で練習した笑い方のほうが、今日は、少しだけ、慣れた。



  ◇



 その夜、ワンルームに帰った俺は、コンビニの袋を床に置いて、まずテレビをつけた。


 普段ならつけない。静かなのが好きだから。でも最近、部屋に帰るとまず音が欲しくなる。静寂が、何かを考えさせるからだ。考えたくないわけじゃない。考えてしまうのが、少しだけ、怖い。


 画面は夕方のニュースの再編集だった。経済コーナーの一角で、小さな文字が流れた。


 『続発する「原因不明の能力低下」。営業職・研究職など多岐にわたる』


 俺は、リモコンを床に置いた。


 アナウンサーの声が続いた。中堅メーカーの四十五歳の営業課長が、会議で突然言葉が出なくなり、現在休職中。関連はまだ不明だが、同様の事例が複数報告されており――。


 中堅メーカー、四十五歳、営業課長。


 三つの条件を、頭の中の新しい書庫が、勝手に検索した。検索結果は、一件しかなかった。


 本郷誠一。


 俺の指先が、リモコンの上で止まった。正確には、止まったのはリモコンではなく、スマホの画面の上だった。いつの間にか、俺はリモコンではなくスマホを握っていた。右手の親指が、ニュースサイトの一覧の上で、ぴたりと動きを止めていた。


 画面の青白い光が、俺の顔を照らしていた。


 胸の奥で、二つの感情が同時に起き上がった。


 一つは、「本郷が」という、かすかな震えのような何か。もう一つは、「まだ、俺の名前は出ていない」という、深い、低い、安堵だった。


 二つの感情を、俺は、どちらを先に感じたか、思い出せなかった。


 親指が、画面の上を、ようやく、ゆっくり、滑り始めた。

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