最初の亀裂
昼休みに兄からLINEが届いた。最近、と書いてあった。最近、会ってないから、と。
俺は少し考えて、「いいよ」と返した。兄と酒を飲むのは、去年の正月以来だった。
兄の昇進の話は、母から何度も聞かされていた。新しい部署、大きな案件、海外出張。俺は毎回、適当な相槌を打って、通話を早く切り上げた。兄さんのことは嫌いじゃない。むしろ好きだった。ただ、兄と自分を比べるたびに、自分の背中が地面にめり込むような気がしていた。
今日は、少し違った。
指先に残る田村と新井の熱を、俺は意識していた。
◇
赤坂の裏路地の居酒屋で、兄は既に先に座っていた。スーツのジャケットを脱いで、シャツの袖を肘までまくっている。三十五歳の大手商社部長の格好としては、いくぶん砕けている。それが兄らしかった。
「悪いな、急に」
「ううん。こっちこそ、久しぶり」
俺はコートを脱いで向かいに座った。メニューを覗き込むふりをしたが、兄の顔を見ない口実だった。兄の顔を正面から見ると、俺の中で何かが崩れそうな気がしていた。
「なんでもいいよ。お前の好きなの頼めば」
「じゃ、生二つ」
生ビールの冷えたグラスがすぐに届いた。兄はグラスを持ち上げて、俺の目を見た。
「お疲れ」
「お疲れさま」
グラスが、かち、と当たった。兄の飲み方は相変わらず早かった。半分近く一気に飲んで、息を吐く音まで絵になっていた。
俺も一口飲んだ。ビールの苦みが、昨日のコンビニの缶ビールとは違って、妙に美味い。兄と飲む酒だから美味いのか、それとも――俺は自分の舌を疑い始めた。
「最近、すごいな、お前」
兄が、唐突にそう言った。
「誰に聞いたの」
「母さんから。『透真が、会社で褒められたみたいよ』って嬉しそうだった。あんなに嬉しそうな声、久しぶりに聞いたよ」
俺は笑った。笑ったのか、笑う顔を作ったのか、自分でも曖昧だった。
「別に、たいしたことじゃないよ。ちょっと、コツをつかんだだけ」
「そのコツ、何だよ。教えろよ」
兄は冗談めかして身を乗り出した。
俺はジョッキを握る指に、力を入れた。汗をかいたグラスが、手の中でゆっくり滑る。教えられるわけがない。この「コツ」の中身は、本郷の声と、田村の間と、新井の手順と、公園の男の目で、出来ている。
「企業秘密」
俺はそう答えた。兄は、肩をすくめて笑った。
◇
三杯目を頼んだあたりで、兄は少し酔っていた。俺も酔っていた。
「お前さ、昔から、俺のことどう思ってた?」
兄は唐突にそう言った。
「なに、急に」
「いや、なんとなく。俺、お前のこと、ずっと気にしてたんだよな。俺だけ先に大学入って、先に就職して、先に昇進して。お前、ずっと下から追いかけてくる感じだったから。俺、それが、ちょっと、きつかった時期もある」
「……兄さんが?」
「兄貴だから、追い越される日が来るのが怖かった、って言えばいいのかな」
兄はビールを口に運び、ちょっと笑った。照れ隠しのような笑いだった。
俺は黙っていた。
兄が「追い越される日が来るのが怖かった」と言うということは、今は、少し、怖くなくなっているということだ。それはつまり――兄は心のどこかで、俺がもう追い越してくる人間じゃないと見切っているということでもあった。それは優しさであり、同時に、静かな決着でもあった。
俺はその優しさに、小さな刃みたいな嫉妬を差し込まれた気がした。
兄の右手が、テーブルの上に置かれた小皿に伸びた。枝豆を一粒つまんで、殻を親指で外す仕草。その仕草が、無防備に、俺の目の前にあった。
俺は自分の右手を、そっとテーブルに伸ばした。
なんの意図もない素振りで、醤油皿を取る動作を装って、兄の手の甲のすぐ隣を通り過ぎる。あと二センチ。あと一センチ。指先の熱が、もう、すぐそこで息をしていた。
――やれる。
この距離なら、触れる。触れれば、兄の中にある、あの「人に好かれる」才能、あの「空気を作る」才能を、俺のものに――
「どうした、透真」
兄の顔が、俺を覗き込んだ。
俺は、指先を止めた。皿を掴んで、そのまま自分の側に引き寄せた。
「いや、醤油、こっちに取りたくて」
「ああ」
兄は何の疑いもなく、そう相槌を打った。
俺は皿に醤油を少しだけ足した。中身を足す必要なんか、なかった。
動悸がしていた。背筋を汗が伝っていた。酔いとは別の汗だった。
◇
俺は途中でトイレに立った。個室ではなく、洗面台の前だった。鏡の前で両手を蛇口の水に晒しながら、自分の顔を見た。
目の奥が、熱を持っていた。
さっき、本気で、兄に触れようとしていた。
「兄の才能を奪ったら」という衝動が、一瞬、理性を越えた。
自分で自分が怖かった。
俺は水をすくって、顔を洗った。冷たい水が、眉間と鼻のあたりを引き締めた。鏡の中の男は、ほんの少しだけ、元の俺の顔に近い顔に戻った気がした。気がしただけだった。
◇
席に戻ったとき、兄はスマホを見ていた。俺の席に顔を上げると、疲れたように笑った。
「透真、お前、最近すごいけど――」
「うん」
「大丈夫か?」
その一言で、胸の奥のどこかが軋んだ。
「大丈夫だよ。何が?」
「いや、なんとなく、さ。お前の目が、俺の知ってる透真の目じゃなかったから」
俺はごまかすように笑って、三杯目のビールを一気に飲んだ。グラスの底に溜まった最後の泡が、小さく弾けた。
◇
翌日、会社の給湯室の前で、田村先輩が同僚と小声で話していた。
「なんかさ、最近、言葉が出てこないんだよ。商談の途中で、次の一手が、全然、浮かんでこない。病院、行ったほうがいいのかな」
「過労じゃない? 休んだら」
「休みたいけど、今の案件――」
俺は足を止めた。柱の陰で、その会話を聞いていた。
罪悪感が、あった。薄く、遠くで、確かに、あった。
でも、それよりも強く、俺の心臓を掴んだのは、別の感情だった。
「バレるかもしれない」。
それだった。俺が感じていたのは、田村への同情ではなく、田村の口から、自分の名前が、誰かに向かって発されてしまうことへの恐怖だった。
気づいた瞬間、自分が吐きそうになった。
でも、俺は吐かなかった。吐いたら、それこそ、目立つからだ。
俺は足音を殺して、給湯室の前を通り過ぎた。
田村の声は、背中で遠ざかっていき、やがて、空調のうなりに吸い込まれた。




