表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/57

加速する渇き

 田村は営業二課の副主任で、社内でも交渉上手として名が通っていた。取引先に無理を言わせるのが上手く、しかも恨まれない。こういう男を見ると、俺は昔、ただ単純に「羨ましい」と思っていた。


 今は違う。


「おはようございます、田村さん」


「おう、灰谷。お前、最近すげえな。部長の覚えもめでたいって」


 田村は笑って右手を差し出してきた。握手を求める動作。普通なら、同じ階の社員同士で握手なんてしない。でも田村は、そういうことを「普通」にできる男だった。それも才能だ。


 俺は差し出された右手を、礼儀正しく握った。


 流れ込んできたのは、冷たい水のような感覚だった。本郷のときの甘い熱とも、公園の男の軽い糸とも違う。静かで、低く、広い。こんな風に相手の懐に入る話し方。こんな風に譲歩を引き出す順番。こんな風に相手の顔を立てながら、こっちの言い分を通す手つき。田村の頭の中にあった「商談の地図」みたいなものが、俺の中で静かに展開していった。


「灰谷、やっぱりお前、なんか雰囲気変わったな」


「そうですかね」


「化けるやつってのは、ある日、急に化けるもんだ。俺も昔そうだった」


 田村はエレベーターの扉が開くと、軽く肩を叩いてフロアに出ていった。その手つきが、ほんの少しだけ、重かった。俺の能力を疑うような重さではなく、ただの、自然な先輩の手だった。それが余計に応えた。



  ◇



 昼、資料室に行ったら、新井さんが書類の山に埋もれていた。


 総務部の新井さんは、俺よりも五つほど年上の女性で、事務処理の速さでは社内の誰にも負けなかった。いろんな部署の雑用を引き受けては、涼しい顔で全部片付けてしまう。本人は「別に得意なわけじゃない」と言うが、それは一番得意な人間の言い方だった。


「あ、灰谷くん、ちょうどよかった。そこの青いファイル、上から三番目、取ってもらえる?」


「これですか」


 俺はファイルを引き抜き、新井さんの手に渡した。その瞬間、指先と指先が触れた。


 ひゅっ、と内側で音がした気がした。


 流れ込んできたのは、整理されたリストのようなものだった。どの書類がどこに入っていて、どの形式がどの部署で必要とされ、どの印鑑がどの順番で必要か。新井さんの脳内には、この会社全部の「手続きの地図」があって、その地図が、ほんの数秒で俺の頭の中に引っ越してきた。


「ありがとう、助かった」


「いえ」


 新井さんは俺に背を向けて、さっさと書類を整理し始めた。変わらない背中。変わらない声。でも、指先の動きが、いつもより少しだけ、鈍かった。彼女はまだ気づいていない。



  ◇



 その日の午後、俺の机の上に溜まっていた未処理の書類は、夕方までにすべて片付いた。


 本当なら一週間分あった。捺印のミスを直すだけでも、普段の俺なら丸一日かかる作業だった。それが、新井さんの頭の中から引っ越してきた「地図」のおかげで、迷いなく進んだ。俺が考えるより先に、手が動いていた。


 気づくと、同じ島の若手が、俺の机を覗き込んでいた。


「灰谷さん、その書類、全部片付いたんですか?」


「うん」


「えっ、昨日あれだけ積まれてたのに」


「ま、コツをつかんだだけ」


 俺は笑った。鏡の前で練習した笑い方だった。若手は、感心したように頷いて、自分の席に戻っていった。


 デスクを見渡す。空いていた。


 あんなに重たく感じていた書類の山が、今や空いたデスクの木目だけを見せていた。


 ――これは、仕事だろうか。


 ふと、そう思った。自分の能力で片付けた書類だけが、デスクに空白を作っている。俺が片付けたものじゃない。新井さんと田村と本郷と、あの公園の男が片付けたものだ。俺はただ、集めて、並べただけだ。


 でも、誰もそんなことは知らない。


 デスクの空白は、俺のものとして、みんなの目に映っている。



  ◇



 帰宅途中、コンビニに寄ってビールを買った。


 普段は発泡酒すら飲まないのに、この日はなぜか、ちゃんとしたビールが飲みたかった。銘柄も、少しだけ上のやつを選んだ。百円の差が、今日の俺には、どうしても小さく感じられた。


 部屋に戻ってテレビをつけると、経済番組の再放送をやっていた。いつもは絶対に見ないチャンネルだった。画面の中で、禿頭の男が記者の質問に答えていた。落ち着いた低い声で、関西弁が混じっていた。


「結果を出すやつが偉い。シンプルやろ。才能? そんなもんに頼るやつは、才能に飼われとるだけや」


 テロップに「久我山グループ会長 久我山悟」と出ていた。


 俺は缶ビールのプルタブに手をかけたまま、テレビの前で止まった。胸の奥で、何かがぞわりと動いた。欲しい、と思ったのだ。この男の中にあるもの、この男の話し方、この男の目の据わり方、それを、丸ごと。


 その欲望の形が、あまりにも鮮明すぎて、俺は一瞬、呼吸を忘れた。


 缶のプルタブを、ゆっくり開ける。プシュ、と空気の抜ける音がした。俺は、自分が何を考えたかを、もう一度、噛みしめるように頭の中で再生した。


 「この人の才能を奪ったら、どうなるんだろう」。


 その思考には、もう「怖い」という単語がついていなかった。「どうなるか」の部分にだけ、強い光が当たっていた。


 俺はビールを一口飲んだ。喉で弾ける炭酸が、指先の熱と同じくらい、少しだけ、物足りなかった。


 満足のハードルが、また一段、上がっていた。昨日までならこれで満足だったのに、今日はもうこれじゃ足りない。


 気づいた瞬間、背筋に一本、細い寒気が走った。


 わかっていて、俺は、もう一口、ビールを飲んだ。画面の中の久我山の口元が、低く、笑っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ