加速する渇き
田村は営業二課の副主任で、社内でも交渉上手として名が通っていた。取引先に無理を言わせるのが上手く、しかも恨まれない。こういう男を見ると、俺は昔、ただ単純に「羨ましい」と思っていた。
今は違う。
「おはようございます、田村さん」
「おう、灰谷。お前、最近すげえな。部長の覚えもめでたいって」
田村は笑って右手を差し出してきた。握手を求める動作。普通なら、同じ階の社員同士で握手なんてしない。でも田村は、そういうことを「普通」にできる男だった。それも才能だ。
俺は差し出された右手を、礼儀正しく握った。
流れ込んできたのは、冷たい水のような感覚だった。本郷のときの甘い熱とも、公園の男の軽い糸とも違う。静かで、低く、広い。こんな風に相手の懐に入る話し方。こんな風に譲歩を引き出す順番。こんな風に相手の顔を立てながら、こっちの言い分を通す手つき。田村の頭の中にあった「商談の地図」みたいなものが、俺の中で静かに展開していった。
「灰谷、やっぱりお前、なんか雰囲気変わったな」
「そうですかね」
「化けるやつってのは、ある日、急に化けるもんだ。俺も昔そうだった」
田村はエレベーターの扉が開くと、軽く肩を叩いてフロアに出ていった。その手つきが、ほんの少しだけ、重かった。俺の能力を疑うような重さではなく、ただの、自然な先輩の手だった。それが余計に応えた。
◇
昼、資料室に行ったら、新井さんが書類の山に埋もれていた。
総務部の新井さんは、俺よりも五つほど年上の女性で、事務処理の速さでは社内の誰にも負けなかった。いろんな部署の雑用を引き受けては、涼しい顔で全部片付けてしまう。本人は「別に得意なわけじゃない」と言うが、それは一番得意な人間の言い方だった。
「あ、灰谷くん、ちょうどよかった。そこの青いファイル、上から三番目、取ってもらえる?」
「これですか」
俺はファイルを引き抜き、新井さんの手に渡した。その瞬間、指先と指先が触れた。
ひゅっ、と内側で音がした気がした。
流れ込んできたのは、整理されたリストのようなものだった。どの書類がどこに入っていて、どの形式がどの部署で必要とされ、どの印鑑がどの順番で必要か。新井さんの脳内には、この会社全部の「手続きの地図」があって、その地図が、ほんの数秒で俺の頭の中に引っ越してきた。
「ありがとう、助かった」
「いえ」
新井さんは俺に背を向けて、さっさと書類を整理し始めた。変わらない背中。変わらない声。でも、指先の動きが、いつもより少しだけ、鈍かった。彼女はまだ気づいていない。
◇
その日の午後、俺の机の上に溜まっていた未処理の書類は、夕方までにすべて片付いた。
本当なら一週間分あった。捺印のミスを直すだけでも、普段の俺なら丸一日かかる作業だった。それが、新井さんの頭の中から引っ越してきた「地図」のおかげで、迷いなく進んだ。俺が考えるより先に、手が動いていた。
気づくと、同じ島の若手が、俺の机を覗き込んでいた。
「灰谷さん、その書類、全部片付いたんですか?」
「うん」
「えっ、昨日あれだけ積まれてたのに」
「ま、コツをつかんだだけ」
俺は笑った。鏡の前で練習した笑い方だった。若手は、感心したように頷いて、自分の席に戻っていった。
デスクを見渡す。空いていた。
あんなに重たく感じていた書類の山が、今や空いたデスクの木目だけを見せていた。
――これは、仕事だろうか。
ふと、そう思った。自分の能力で片付けた書類だけが、デスクに空白を作っている。俺が片付けたものじゃない。新井さんと田村と本郷と、あの公園の男が片付けたものだ。俺はただ、集めて、並べただけだ。
でも、誰もそんなことは知らない。
デスクの空白は、俺のものとして、みんなの目に映っている。
◇
帰宅途中、コンビニに寄ってビールを買った。
普段は発泡酒すら飲まないのに、この日はなぜか、ちゃんとしたビールが飲みたかった。銘柄も、少しだけ上のやつを選んだ。百円の差が、今日の俺には、どうしても小さく感じられた。
部屋に戻ってテレビをつけると、経済番組の再放送をやっていた。いつもは絶対に見ないチャンネルだった。画面の中で、禿頭の男が記者の質問に答えていた。落ち着いた低い声で、関西弁が混じっていた。
「結果を出すやつが偉い。シンプルやろ。才能? そんなもんに頼るやつは、才能に飼われとるだけや」
テロップに「久我山グループ会長 久我山悟」と出ていた。
俺は缶ビールのプルタブに手をかけたまま、テレビの前で止まった。胸の奥で、何かがぞわりと動いた。欲しい、と思ったのだ。この男の中にあるもの、この男の話し方、この男の目の据わり方、それを、丸ごと。
その欲望の形が、あまりにも鮮明すぎて、俺は一瞬、呼吸を忘れた。
缶のプルタブを、ゆっくり開ける。プシュ、と空気の抜ける音がした。俺は、自分が何を考えたかを、もう一度、噛みしめるように頭の中で再生した。
「この人の才能を奪ったら、どうなるんだろう」。
その思考には、もう「怖い」という単語がついていなかった。「どうなるか」の部分にだけ、強い光が当たっていた。
俺はビールを一口飲んだ。喉で弾ける炭酸が、指先の熱と同じくらい、少しだけ、物足りなかった。
満足のハードルが、また一段、上がっていた。昨日までならこれで満足だったのに、今日はもうこれじゃ足りない。
気づいた瞬間、背筋に一本、細い寒気が走った。
わかっていて、俺は、もう一口、ビールを飲んだ。画面の中の久我山の口元が、低く、笑っていた。




