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才能略奪者の成り上がり――触れるだけで相手の才能を奪える俺、日本経済の頂点まで駆け上がる  作者: ぽんぽこライフ


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脱皮

 役員会議室というのは、営業部の俺たちが普段使う部屋ではない。フロアの一番奥、分厚い木の扉の向こうにあって、入るのは課長以上と決まっていた。俺は扉の前で、一度だけ自分のネクタイを直した。直す必要はなかった。昨夜、鏡の前で二十分かけて締めたネクタイだった。ただ、手のやりどころがなかった。


「入れ」


 部長の声に押されて、俺は扉を押した。


 部屋の中には、部長と、営業本部長と、もう一人、俺の見たことのない役員がいた。三人の視線が、ゆっくりと、俺の顔に焦点を合わせた。一ヶ月前の俺なら、視線を浴びただけで、膝の裏が震えていた。今は、震えなかった。


「灰谷」


 営業本部長が、紙の束を机に置いて、俺に椅子を勧めた。


「次のAプロジェクト、お前をリーダーにつけたい」


 俺は、頭を下げた。下げるべき角度を、自分で計算していた。三十度でもなく、四十五度でもない、三十七度。「感謝はしているが卑屈ではない」を表現する角度。どこで計算を習ったのかは、自分でも分からなかった。



  ◇



 Aプロジェクトには、ベテランの主任が三人と、同期が二人、若手が四人。合計十人の部下が、俺の下についた。


 最初の打ち合わせは、プロジェクトルームの中央の、大きなテーブルで行った。十人が椅子に腰かけて、俺を見上げていた。そのうちの何人かは、昨日まで俺を「灰谷」と呼び捨てで呼び、コピー取りを命じ、昼飯の弁当を買いに走らせていた男たちだった。今朝から、俺は彼らに「灰谷リーダー」と呼ばれることになっていた。


 一瞬、笑ってしまいそうになった。


 笑ってしまいそうになる自分を、俺はなんとか押さえつけた。押さえつけきれず、口角の左側だけが、ほんの少しだけ、上がった。誰も気づかなかった、はずだった。


「それでは始めます」


 俺はそう言って、プロジェクターのリモコンを握った。


 打ち合わせは、俺の頭の中で、あらかじめ組んだ通りに進んだ。結論を先に言い、論点を三つに割り、それぞれに反論を想定した答えを用意した。部下の発言があれば、否定せず、「それは良い指摘です、ただ、ここのデータと組み合わせると――」と、一度受けてから、別の方向に引き直した。本郷ならこう話すだろう、田村ならここで引くだろう、新井ならここで手を動かすだろう、水野ならここで前期の数字を持ち出すだろう。四人の才能が、俺の中で会議室を囲んでいた。俺は、その中心で、指揮棒を振っていた。


 一時間後、部下の一人が小声でつぶやいた。


「灰谷さん、別人みたいっすね」


 別人みたい、という言葉を、俺はその日、三回聞いた。


 三回とも、俺は笑ってごまかした。


 心の中では、そう呼ばれるたびに、少しだけ、背骨が伸びる感覚があった。



  ◇



 夕方、会社を出て、俺は地下鉄には向かわなかった。


 丸の内のビル街を、少し歩いた。日の長くなった春の夕方で、西の空がまだ明るかった。通りの両側に並ぶ高層ビルのガラスが、夕焼けを斜めに受けて、鏡のように俺を映した。


 ガラスの前で、俺は足を止めた。


 映っている男が、知らない男だった。


 スーツの肩の位置が、一ヶ月前とは違っていた。両足の立ち幅が、少し広かった。両手の指の形が、ポケットの内側で軽く握られていて、その握り方に、ほんの少しだけ、余裕があった。顎の角度が違った。目線の高さが違った。前の俺は、地面の斜め下を見ながら歩いていた。この男は、真正面を見ていた。


 ――脱皮した蛇みたいだな。


 俺は、ガラスの中の男に、そう語りかけた。


 蛇は脱皮する。脱皮するたびに、蛇は少しだけ大きくなる。けれど、脱ぎ捨てた皮は、もう、元の場所には戻らない。俺が脱ぎ捨てたのは「卑屈な灰谷」の皮だった。けれど、皮の内側には、たぶん、脱ぎ捨てたくなかった何かも、一緒に剥がれ落ちていた。それが何なのかは、ガラスの中の男には、もう、見えない場所に落ちていた。


 俺はガラスから、目を離した。


 目を離した瞬間、俺は、歩き出すスピードを、ほんの少し、速めた。



  ◇



 銀座の地下にある、バーに入った。


 このバーは、先週、雑誌で見つけた店だった。カウンター十席、椅子のほとんどが埋まる夜でも、店内の話し声は、不思議と静かに保たれる、そういう店だった。ドアマンに会員かと聞かれ、「今日が初めてです」と答えると、カウンターの一番奥に案内された。


 バーテンダーは、四十代の男だった。


「お酒は、お強いほうですか」


「いえ、弱いほうです。だから、強めの、少量のを」


 自分でも、意外な答え方だった。「弱い」と素直に言ったのに、語尾には、強がりを伴わないだけの落ち着きがあった。バーテンダーは軽く頷き、琥珀色の液体をロックグラスに一杯だけ注いで、俺の前に置いた。


 口をつけた。


 舌の奥で、甘みと苦みが、同時に弾けた。いくつもの層が、喉を降りていく途中で、ほどけていった。こんな味のする酒を、俺は、生まれて初めて飲んでいた。


 高いお酒は、違うものだ。


 その「違うもの」を、俺は、今日、美味しいと感じていた。


 昨日までの俺なら、同じ酒を飲んでも、違いが分からなかったと思う。たぶん、「高いだけだな」と思って、残したかもしれない。今日は、違った。味覚が、どこかの階段を一段、登っていた。



  ◇



 隣の席の男が、話しかけてきた。


「兄さん、初めて?」


 白髪混じりの、五十代後半の男だった。仕立ての良いジャケットを、気負いなく着こなしていた。バーのマスターが「こちら、常連の羽生さまです」と紹介してくれた。羽生と名乗った男は、俺が名刺を出そうとするのを、手のひらで優しく制した。


「ここでは、名刺は要らないよ。話だけだ」


 俺たちは三十分ほど、たわいもない話をした。酒の話、季節の話、銀座の昔話。羽生の話は、上手かった。相手に喋らせる隙間が、会話の中に、等間隔に空いていた。田村の交渉術とは違う種類の、「高めの間」だった。


「兄さん、何の仕事?」


「一応、メーカーの営業です」


「ふうん。じゃあ、久我山さんの名前、聞いたことあるだろ」


「久我山……」


「久我山悟。IT系の会長さんでね。この店によく来るんだ。今日は、いないけどね」


 ――久我山悟。


 先週、俺のワンルームのテレビに映っていた、禿頭の、関西弁の混じる男。


 あの男の名前を、羽生は、知り合いの名前を呼ぶ調子で口にした。「この店によく来る」。その一言が、俺の中で、ぐるりと回った。この店に来れば、久我山悟と、同じ空間に、座れる。同じ空気を吸える。握手できる距離まで、近づける。


 俺は自分の喉の奥が、少しだけ、乾くのを感じた。


「今度、来るタイミングが合えば、紹介するよ」


 羽生は、なんの含みもなく、そう言った。


 俺はグラスを持ち上げて、軽く頭を下げた。「ありがとうございます」の声は、我ながら、綺麗な響きだった。



  ◇



 会計を済ませて、バーを出たとき、スマホが震えた。


 ニュースアプリの速報だった。画面の小さな四角の中に、短い見出しが並んでいた。


 『元五輪候補の競泳選手、原因不明の競技力低下で引退示唆』


 俺は、その見出しを、一度目では読み流した。二度目で、足が止まった。三度目で、指先に、またあの熱が戻ってきた。


 もちろん、俺はその選手のことを知らなかった。


 名前もまだ、ニュースの見出しには出ていなかった。速報は速報で、本文は短く、競技団体がコメントを控えている、と書いてあるだけだった。


 知らない選手のニュースに、なぜ、指先が反応しているのか。


 自分でも、よく、分からなかった。


 分からないまま、俺は、その記事の「あとで読む」ボタンを、しっかりと押した。スマホの画面が、一瞬だけ青く光って、ブックマークされたことを知らせた。


 夜風が、銀座の地下から吹き上がってきた。少しだけ湿った、四月の終わりの風だった。俺はコートの襟を軽く立てて、駅に向かって歩き始めた。歩き出した瞬間の、靴のかかとの音が、昨日までの自分よりも、少しだけ、重かった。

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