捕食者の論理
電話もしていない。資料もめくっていない。ただ、机の上に置いた自分の右手を、そのまま、見下ろしているだけだった。以前なら、彼の机にはクライアントのファイルが三つは広げられ、左手でキーボードを叩きながら右手で受話器を取る、その二重奏の姿が定位置だった。今は、右手だけが、静かに置かれていた。
「田村さん、おはようございます」
俺は、意識して、自分の声を普通の高さに抑えて、そう言った。
田村は、ゆっくり顔を上げた。反応までに、半拍ほど間があった。
「ああ、灰谷。……おはよう」
そう返した田村の声は、少し、かすれていた。
俺はそれ以上何も言わず、自分の席に向かった。歩きながら、フロアの景色を、視界の端で撫でた。総務の新井さんは、手元の書類に、いつもより長く目を落としていた。経理の水野は、自分のパソコンの画面を、何度も上にスクロールしては戻り、スクロールしては戻り、同じ場所をぐるぐる探していた。
俺が奪った四人のうち、三人までが、もう、崩れ始めていた。
四人目の本郷は、ニュースの中で言葉を失っていた。
◇
昼休みに、俺は一人で、オフィスビルの近くのカフェに入った。
普段なら社員食堂で適当に済ませる日だったが、今日はどうしても、誰もいない空間で、じっくり、考えなければいけないことがあった。窓際の席に座って、黒いコーヒーを頼んだ。砂糖は、頼まなかった。一ヶ月前の俺は、砂糖を三つ入れないとコーヒーが飲めなかった。今は、黒いままで飲める。舌が、どこかの段階で、変わった。
カップに口をつけながら、俺は、今朝のフロアの光景を、頭の中でもう一度再生した。
田村の、空っぽの右手。新井の、いつもより重い指先。水野の、戻れないスクロール。そして、ニュースの中の、無名の営業課長。
――彼らは、苦しんでいる。
事実として、そう認識した。認識しただけだった。認識した先の感情は、なぜか、薄かった。「あ、苦しんでいる」と思った瞬間、頭の中の別の回路が、勝手に、新しい文章を組み立て始めた。
――でも、彼らは、その才能を、活かしきれていなかった。
その一文が、頭の中に、ぽつりと浮かんだ。
活かしきれていなかった。田村の交渉術は、中小の取引先相手に小さな譲歩を引き出すだけに使われていた。新井の事務処理能力は、他部署の雑用を捌くだけに使われていた。水野の記憶力は、経理の伝票を正しく並べるだけに使われていた。本郷の営業トークは、部下を怒鳴るためだけに使われていた。
俺だったら、もっと、上の舞台で使える。
俺だったら、もっと、大きな数字を動かせる。
俺だったら。俺だったら。俺だったら。
頭の中で、その言葉が、何度も反響した。
俺は、コーヒーを一口飲んだ。苦みが、奥歯に沁みた。そして、気づいた。
これは、自己正当化の始まりだ。
気づいて、笑ってしまった。いや、正確には、笑ったのではなく、頬の筋肉が、少しだけ、上に動いただけだった。笑いになりきらなかった。笑いたかったのに、その気分には、ならなかった。
自己正当化だと、気づいているのに、止められなかった。止められないまま、俺の頭の中で、その論理は、一本の鉄の棒のように、硬く、まっすぐになっていった。
――才能は、活かせる人間が、持つべきだ。
◇
午後、Aプロジェクトの打ち合わせで、俺はその論理を、一度だけ、試した。
部下の一人が、「この案件のクライアントには、もう一人、大手の担当が食いついている」と報告してきた。普通なら、そこで引く選択肢もあった。力のある相手とぶつかるのは、こちらのリソースを考えても、得策ではない。俺の中の本郷と田村の声は、「ここは引いとけ」と言っていた。
でも、俺は、引かなかった。
「いきます。うちが取ります」
「……本気ですか、リーダー」
「うちのほうが、あの案件を、活かせます。向こうは数字を積むだけで、あの顧客の本当のニーズを、見ていない」
言いながら、俺は、自分の声の迷いのなさに、微かに驚いていた。
「活かせる」という単語が、会議室の中で、妙に響きが良かった。部下たちは、一瞬の沈黙の後、頷いた。頷かせたのは、たぶん、俺の声だけではなかった。俺の中の四人の才能の、合議みたいなものが、部下たちの背中を押したのだ。
会議が終わったあと、廊下で、同期の一人が俺に話しかけてきた。
「灰谷、お前さ、最近、ちょっと怖いって言われてるぞ」
「怖い?」
「いや、悪い意味じゃない。尊敬の、こう、混じった怖さ。でも、なんつうかな、昔のお前じゃ、絶対しなかった目え、してるわ」
同期はそう言って、にやっと笑った。悪気はない、そういう笑い方だった。
俺は、軽く頭を下げて、歩き去った。
歩きながら、俺は、「怖い」の意味を、自分なりに噛み砕いた。
俺は、怖く、なりつつある。そして、その怖さに、内側から、誇らしさを感じている。それは、とても、まずい感情のはずだった。まずい感情のはずなのに、舌の上に広がった瞬間、ほんのりと、甘い味がした。
苦いコーヒーに慣れた舌は、もう、苦さを苦さと感じていなかった。
◇
その夜、俺は、ワンルームの机に向かっていた。
ノートパソコンを開いて、新しいテキストファイルを作った。ファイル名は、最初、自分でも迷った。「メモ」や「todo」では、嘘をついている気がした。結局、俺は、何も名前を付けずに、空欄のまま保存した。
空欄のファイルに、俺は、一行ずつ、書き始めた。
社内で、まだ残っている「奪える才能」のある人間を、リストアップするためだった。
――いや、違う。
俺は、書き始めて、途中で、指を止めた。
社内の名前を書こうとしていた指が、書きかけて、止まった。書こうとしていた名前が、もう、俺の中の「飢え」の基準を、満たしていなかった。田村の交渉術、新井の事務処理、水野の記憶力、それに似た「小物」の才能を、あと五人分集めても、俺のこの、脳の奥の熱は、たぶん、もう、満足しない。
昨日の夜、高級バーで飲んだウイスキーの味を、舌が覚えていた。
あれより下の味を、舌は、もう、美味しいと感じてくれないだろう。
俺は、カーソルを、画面の一番上に戻した。
そして、社外の人間の名前を、書き始めた。
先週のバーで羽生が口にした名前。テレビで見た禿頭の男。ニュース速報の、引退示唆の選手。名刺交換会で一度だけ遠くから見た、IT系の若手経営者。週刊誌の対談記事で見た、異色の政治家。頭の中の水野の書庫が、記事の隅々まで覚えていた。
一つ一つの名前の横に、俺は、その人物の「最も秀でた才能」を書き加えた。
営業トーク、事務処理、交渉術、記憶力、の次に並ぶ言葉が、経営判断、身体能力、政策立案、といった、少しも小さくない、ひと回りもふた回りも大きな単語に変わっていった。画面の文字が、下に下に伸びていった。
書きながら、俺は、自分の心拍が少しだけ上がっているのを、感じていた。
怖かったわけではない。
興奮していた。
この単語の一つ一つが、まだ手に入っていないのに、もう、喉の奥に、仮の味が降りていた。
俺は、自分の両手を、机の上に置いた。
右の手のひらの真ん中を、左の親指で、ゆっくり押した。何度か押していると、そこに、微かな脈動のようなものが返ってきた。以前は、こんな脈、感じなかった。最近、ここに「吸う側の心臓」みたいなものが、もう一個、生まれている気がする。
俺は、ファイルを保存した。
ファイル名のところに、少し考えてから、半角で、短い英数字の組み合わせを打ち込んだ。自分にしか分からない、無害に見える文字列だった。
保存ボタンを押した瞬間、俺は、もう、以前の「偶然の接触」の世界から、完全に出ていた。
ここから先は、狩りだ。




