奪われた側の夜
電話の相手は、十年来の取引先の購買部長で、本郷が新人の頃に初めて名刺を渡した相手だった。温厚な声で、電話の向こうから「本郷さん?」と、二度、三度、呼びかけていた。本郷は、その声を聞きながら、口を開こうとしていた。口の形は、ちゃんと作れた。舌の位置も、たぶん、正しく置けていた。なのに、言葉が、出てこなかった。
「……申し訳ありません、本郷さん、電波が悪いのか、聞こえづらいです」
相手がそう言って、一度切りますね、とためらいがちに、電話は切れた。
本郷は受話器を置いた。
置いた手の指が、少しだけ、震えていた。
フロアを見回したが、誰もこちらを見ていなかった。誰も見ていないのは、本郷にとっては、この二週間で最も不気味な変化だった。以前なら、本郷が電話を切るたびに、フロアの半分が、無意識に彼のほうを気にしていた。怒鳴り声が飛んでこないか、誰かがつるし上げられないか、警戒して、視線を送っていた。その警戒が、今は、消えていた。
消えているのは、警戒だけではなかった。
本郷という存在そのものが、フロアから、うっすらと、消えかけていた。
◇
二十年前、本郷誠一は、この会社の営業部に、中途採用で入った。
前の会社で、パワハラ気味の課長の下で鍛えられ、同期の倍の数字を叩き出して、転職した。その転職先でも、三年で主任、五年で係長、十年で課長、というスピードで上がった。本郷の武器は、一つだった。喋りだ。相手の懐にずかずか入り、相手の一番嫌がる話題に正面から触れ、「だから、うちに任せてもらえば解決するんですよ」と畳みかける。乱暴に見えて、理屈は通っていた。相手は、最初は怒った顔をしたが、最後には、契約書に印鑑を押した。
喋りの型は、本郷にとって、身体の一部だった。
朝、顔を洗って、歯を磨き、ネクタイを締める、そのどれと同じくらい、自然に、そこにある型だった。考えて喋っていたのではなく、喋りのほうが、本郷の代わりに、勝手に動いてくれていた。
その型が、先週から、無くなった。
無くなった、という表現は、正確ではないかもしれない。型の置き場所は、本郷の中に、まだ、あるのだ。そこに、手を伸ばせば、届く気配は、あった。けれど、手を伸ばしても、伸ばしても、そこに指先が届いた瞬間、型が、ふっ、と消えてしまう。子供の頃、夢の中で捕まえた蝶が、指の中で溶けるように、消える。
本郷は、何度も、その空の場所に手を伸ばしていた。届かないと知っていて、伸ばし続けていた。
◇
部長室の扉をノックしたとき、本郷の指は、もう一度、震えた。
「どうぞ」
中から、穏やかな声がした。本郷の直属の上司である、田之上部長だった。本郷がこの会社に入った頃、田之上はまだ係長で、本郷と二人で、よく新橋の安い焼き鳥屋に飲みに行った仲だった。二人とも若かった。二人とも、ぎらぎらしていた。
扉を開けて、本郷は、机の前の椅子に座った。田之上は、書類から顔を上げた。温厚な顔だった。けれどその温厚さの奥に、今日は、少しだけ、困ったような色が混ざっていた。
「本郷。率直に言うわ」
田之上の声は、敬語と普段語の中間で止まっていた。こういう時の田之上は、一番、言いにくいことを言うときだった。
「お前、地方支社のほうに、行ってもらえないか」
本郷の視界の端で、田之上の机の上の書類が、少しだけ、白く滲んだ。
「地方、ですか」
「名目は、立て直しだ。向こうの支社長が定年でな、後任が欲しい。お前なら、一人で十人分働けるって、役員会でも言っといた」
田之上は、そう言いながら、本郷の顔を見なかった。窓の外の曇り空を見ていた。
「一人で十人分働けるって言っといた」という言葉を、本郷は、腹の底で、ゆっくり噛んだ。
その言葉は、以前の本郷に対する、昔馴染みの、精一杯のフォローだった。今の本郷に対する、事実ではなかった。今の本郷は、電話一本、まともに話せない。一人で十人分どころか、十人で一人分の仕事もできない可能性があった。田之上は、そのことを、たぶん、もう、知っていた。知っていて、それでも、昔馴染みに「立て直し」という言葉を、贈ってくれていた。
本郷は、静かに頭を下げた。
「……考えさせてください」
考えさせてください、という言葉を発するのに、本郷は、喉のどこかの蓋を、一枚、押し上げなければならなかった。自分の喉に、蓋があることを、本郷は、生まれて初めて知った。
◇
その夜、本郷は、新橋の焼き鳥屋に、一人で入った。
田之上と若い頃に通った店だった。カウンターの一番奥の席に座り、生ビールと塩のタレを頼んだ。店主はもう七十を超えていて、本郷の顔を見て、いつもの注文を、何も聞かずに並べた。
ビールに口をつけて、本郷は、びくりとした。
味が、なかった。
正確には、味はあった。泡の苦み、麦の香り、炭酸の圧、冷たさ。それらは、舌の上に、ちゃんと乗っていた。乗っているのに、本郷の脳のどこかに届くはずの「美味い」という信号が、途中で、消えていた。仕事終わりの一杯が、一番、自分を人間に戻してくれる瞬間のはずだった。今は、冷たい水を飲んでいるのと、大差がなかった。
奪われたのは、喋りだけではないのかもしれなかった。
喋りは、たぶん、本郷の人生の多くの楽しみと、ぐるぐる絡み合っていた。喋りが無くなった瞬間、その絡み合っていた別の糸も、一本、また一本と、解けて落ちていっているのかもしれなかった。
隣の席の、見知らぬ客が、テレビに向かって、にやりと笑った。本郷はその笑いを目の端で見て、自分の口元を、無意識に、同じ形に動かそうとした。動かなかった。
「大将、もう一杯」
本郷は、ようやく、そう言った。大将は何も言わず、二杯目を注いだ。注ぎながら、大将の視線が、ほんの一瞬だけ、本郷の顔の上で止まった。その視線を、本郷は、ちゃんと感じ取った。
――顔色、悪いぞ。
そう言いたかったのを、飲み込んでくれた視線だった。
本郷は、二杯目を、半分だけ飲んで、会計を頼んだ。
◇
店を出て、本郷は、向かいのビルを見上げた。
そのビルの七階の窓に、明かりが一つ、点いていた。会社のフロアだった。残業している社員の姿が、ぼんやり、ガラスの向こうに見えた。
見えた姿の中に、本郷の知っている背中があった。
灰谷透真だった。
灰谷はデスクに向かって、一人で、何か資料を広げていた。背筋が、すっ、と伸びていた。その背筋の伸び方を、本郷は、以前、違う人間の背中で見たことがあった気がした。いや、違う。本郷は、自分の若い頃の背中を、そこに、重ねていた。二十年前の、まだ何も奪われていない頃の、自分の背中。
本郷の口から、ぼそりと、声が漏れた。
「……なんで、あいつが」
声は、夜の空気の中で、すぐに解けて消えた。解けて消える前に、本郷の頭の中で、ほんの一瞬、ある光景がよぎった。
先月のフロアだった。
本郷が、灰谷を詰めていた光景だった。詰めながら、一度、肩を、強く、小突いた。そのときの手のひらに、奇妙な熱が、流れ込んできた覚えが、本当は、あった。酔った夜の記憶のように、不確かな、けれど、確かに、あった。
本郷は、首を振った。
馬鹿馬鹿しい。そんなことが、起きるわけがない。喋りが奪われる、なんて、病気か、疲れか、老いか、その三つのどれかのはずだ。原因不明のまま、明日、病院に行く。そう決めて、本郷はコートの襟を立てた。
ビルの七階の明かりは、まだ点いていた。
その明かりの中で動いている背中は、本郷の知らない男の背中のままだった。
本郷は、ゆっくり、夜の駅に向かって歩き出した。駅までの道は、若い頃、田之上と何百回も歩いた道だった。歩きながら、本郷の耳の奥で、かつての自分の喋りの、ほんの切れ端が、一度だけ、鳴った。鳴ってすぐ、消えた。
鳴ったことだけが、今日、本郷に残された、唯一の、確かな物証だった。




